「喜劇王」曾我廼家五郎(一八七七〜一九四八)の虚実とりまぜた挿話の多くは、五郎の二つの「自伝」である、『十五年の足跡』(双雅房、一九三九年)『喜劇一代男』(大毎書房、一九四八年)をもとにしている。後者は編者の上田芝有が三宅周太郎「喜劇王曾我廼家五郎」(『新潮』第三十巻第一号[一九三三年一月]および石割松太郎「曾我廼家五郎論」(『中央公論』第四十九巻第二号[一九三四年二月])の記述を借用して聞き語りふうにでっち上げたものなので、もともと史料としての信憑性は薄いが、前者にも不正確な記述が多くある。本発表ではその中でも五郎(および十郎)が意図的に広めたと思われる三つの「神話」の嘘をとりあげた。第一に、旗揚げとされている一九〇四年二月の大阪・浪花座の公演の初日は十三日であり、石割が記す十日ではない。これは財団法人阪急池田文庫所蔵の絵入役割番付で明らかである。第二に、二日目に日露戦争をあてこんだ「無筆の号外」が評判を呼んだという石割の記述、および伊原青々園『歌舞伎年表』の同様の記述は史料の裏付けを欠く。『近代歌舞伎年表京都篇』に拠れば「無筆の号外」上演は京都朝日座十月十四日初日公演の絵入役割番付ではじめて確認される。もし「無筆の号外」が浪花座で評判を呼んだのであれば、京都朝日座に初めて乗り込む二月二十九日初日公演でとりあげてもおかしくないであろう。実際には、五月まで続くこの京都朝日座公演で「無筆の号外」がとりあげられた形跡はない。浪花座公演が失敗だったことについては曾我廼家十郎の発言(『演藝画報』第四巻第十号[一九〇六年])や、鵜野漆磧の記述(「喜劇號補遺」『あのな』第十四号[一九二五年二月十一日])があるが、八月から十月にかけて京都朝日座で二回目の公演を行い、徐々に人気を得るなかで、「無筆の号外」が上演された、というのが本当のところだろう。第三に、一九〇五年四月・五月の初東京公演は『十五年の足跡』や關根默庵『明治劇壇五十年』が記すように失敗に終わったのではなく、少なくとも新富座・市村座においては成功であった。これは当時の『都新聞』の複数の記事で明らかである。また新富座公演では「無筆の号外」は上演されておらず、当時はさほど人気を呼ぶ演目でなかったことが推測される。 これら「喜劇の誕生」にまつわる三つの神話はなぜ史実の検証をくぐり抜けて残ったのだろうか。石割は「この浪花座の二日目が紀元節で、日露國交斷?の新聞號外が飛ぶ」と書き、曾我廼家劇と、日露戦争を一つの節目として近代国家としての出発をはかる日本とを明らかに重ね合わせている。「ハイカラの二○加喜劇と銘を打ち」という『演藝畫報』に掲載された川柳が示唆するのは、当初は大阪俄にすぎなかった曾我廼家劇が大見得を切って「喜劇」と名乗ることの滑稽さだけではない。それでもそれは「ハイカラ」に感じられた、という事実でもある。だが日本の近代化の言説にこのような複雑な物語はなじまない。日露戦争勃発とともに「無筆の号外」という喜劇が新たに誕生した、という単純な物語のほうが好まれる。第一および第二の神話はこの単純な物語を作り上げたために語り継がれたのである。 第三の神話は、文化における東京の優位性という、また別の近代化の言説に沿うように語り継がれた。「文化的後進地」たる大阪で産声を上げた喜劇が当初東京では受け入れられない、というのは当然なことであり、それが洗練されていくにつれ、東京で受け入れるようになった、という五郎が広めた嘘は、東京を中心として近代化が行われたという知識人たちの無意識の前提に合致していたために受け入れられたのである。
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博論第一章の粗筋
「喜劇王」曾我廼家五郎(一八七七〜一九四八)の虚実とりまぜた挿話の多くは、五郎の二つの「自伝」である、『十五年の足跡』(双雅房、一九三九年)『喜劇一代男』(大毎書房、一九四八年)をもとにしている。後者は編者の上田芝有が三宅周太郎「喜劇王曾我廼家五郎」(『新潮』第三十巻第一号[一九三三年一月]および石割松太郎「曾我廼家五郎論」(『中央公論』第四十九巻第二号[一九三四年二月])の記述を借用して聞き語りふうにでっち上げたものなので、もともと史料としての信憑性は薄いが、前者にも不正確な記述が多くある。本発表ではその中でも五郎(および十郎)が意図的に広めたと思われる三つの「神話」の嘘をとりあげた。第一に、旗揚げとされている一九〇四年二月の大阪・浪花座の公演の初日は十三日であり、石割が記す十日ではない。これは財団法人阪急池田文庫所蔵の絵入役割番付で明らかである。第二に、二日目に日露戦争をあてこんだ「無筆の号外」が評判を呼んだという石割の記述、および伊原青々園『歌舞伎年表』の同様の記述は史料の裏付けを欠く。『近代歌舞伎年表京都篇』に拠れば「無筆の号外」上演は京都朝日座十月十四日初日公演の絵入役割番付ではじめて確認される。もし「無筆の号外」が浪花座で評判を呼んだのであれば、京都朝日座に初めて乗り込む二月二十九日初日公演でとりあげてもおかしくないであろう。実際には、五月まで続くこの京都朝日座公演で「無筆の号外」がとりあげられた形跡はない。浪花座公演が失敗だったことについては曾我廼家十郎の発言(『演藝画報』第四巻第十号[一九〇六年])や、鵜野漆磧の記述(「喜劇號補遺」『あのな』第十四号[一九二五年二月十一日])があるが、八月から十月にかけて京都朝日座で二回目の公演を行い、徐々に人気を得るなかで、「無筆の号外」が上演された、というのが本当のところだろう。第三に、一九〇五年四月・五月の初東京公演は『十五年の足跡』や關根默庵『明治劇壇五十年』が記すように失敗に終わったのではなく、少なくとも新富座・市村座においては成功であった。これは当時の『都新聞』の複数の記事で明らかである。また新富座公演では「無筆の号外」は上演されておらず、当時はさほど人気を呼ぶ演目でなかったことが推測される。
これら「喜劇の誕生」にまつわる三つの神話はなぜ史実の検証をくぐり抜けて残ったのだろうか。石割は「この浪花座の二日目が紀元節で、日露國交斷?の新聞號外が飛ぶ」と書き、曾我廼家劇と、日露戦争を一つの節目として近代国家としての出発をはかる日本とを明らかに重ね合わせている。「ハイカラの二○加喜劇と銘を打ち」という『演藝畫報』に掲載された川柳が示唆するのは、当初は大阪俄にすぎなかった曾我廼家劇が大見得を切って「喜劇」と名乗ることの滑稽さだけではない。それでもそれは「ハイカラ」に感じられた、という事実でもある。だが日本の近代化の言説にこのような複雑な物語はなじまない。日露戦争勃発とともに「無筆の号外」という喜劇が新たに誕生した、という単純な物語のほうが好まれる。第一および第二の神話はこの単純な物語を作り上げたために語り継がれたのである。
第三の神話は、文化における東京の優位性という、また別の近代化の言説に沿うように語り継がれた。「文化的後進地」たる大阪で産声を上げた喜劇が当初東京では受け入れられない、というのは当然なことであり、それが洗練されていくにつれ、東京で受け入れるようになった、という五郎が広めた嘘は、東京を中心として近代化が行われたという知識人たちの無意識の前提に合致していたために受け入れられたのである。