見終わって滂沱の涙。宮城聡のおかげで野田秀樹の戯曲で泣く、という経験がどんなものであるかを二十年ぶりに思い出した。俳優が舞台を走り回り、美文調の台詞を朗々と聞かせる。ただでさえ複雑な筋立てが超特急で展開するので、観客は頭がついていけずただ圧倒され、それでもわけのわからないながらに野田の祈りにも似た切実な思いが舞台上のさんざめく熱気を通し伝わってきて、いつの間にか涙に暮れている。
インプットされる情報の多さに知性はオーバーヒートしてうまく働かなくなってしまっているのに、感情だけは舞台で起きていることに敏感に反応して涙を流している。そんな自分への驚きも含め、一九八〇年代小劇場演劇を同時代人として立ち会った人間において、夢の遊眠社の公演の幕切れで涙することはまさしく特権的瞬間であるだけでなく、その後も長く記憶の核として残るような濃厚な体験だった。残念ながらロンドン留学から帰ってきて以降の野田の戯曲の質は、いくつかの例外をのぞけば極端に落ち、また夢の遊眠社全盛期ですらも感じられた演出家としての資質のなさが露呈している現在、野田地図の舞台は往年の見る影もない。
しかし宮城はかつての野田秀樹がどれほど素晴らしい作品を書いていたかをまざまざと思いおこさせた。しかも演出家としては野田を遙かに上回る手腕で。かつてのように一つの手法に拘るのではなく、次々と新たな手法を繰り出すことで、濃密な意味に満ちた舞台空間を維持できるようになった宮城は、さらに腕を上げたといえるだろう。
すでに『ペール・ギュント』において、空間を文字通り縦横無尽に使いこなすその巧みさは目立っていたが、今回は、俳優たちが天井からつり下がる梯子やロープを上り下りし、舞台奥に演技もする打楽器オーケストラを配置し、擬似バロック様式の舞台装置と相待って18世紀フランス宮廷演劇もかくやと思わせる猥雑さを醸し出す。オーケストラを指揮する棚川寛子の劇伴も、新聞紙をいっせいに破る音を取り入れたりごった煮の面白さをいや増す。
『二人の女』で露呈した俳優の練度の低さがSPACの問題点だったが、今回はメフィストフェレスの渡辺敬彦、オーベロンの貴島豪、パックの牧山祐大、福助の小長谷勝彦をはじめとして、格段にレベルが上がっている。とくに渡辺敬彦はたぶん素では人の良い小心な人なのだろうが、それを舞台で見せずに、もっと傲慢になりきれれば、かつての紅テントの名を高らしめた名優たちと同様、最高に「魅せる」役者になれるだろう。
戯曲がシェイクスピアの原作の筋立てをほぼ忠実になぞる前半は、俳優は会話をしていてもお互いに向き合うことなく、客席正面を向いて言葉の意味がはっきり通じるのに十分なほどゆっくり語らせるなど、夢の遊眠社時代の野田演出の片鱗も見せない。その一方で、メフィストフェレスがパックの役を奪い、物語がいかにも野田作品らしく錯綜していく後半になると、俳優たちは夢の遊眠社時代の野田秀樹や上杉祥三や段田安則のように歌い上げる。往年のファンには嬉しいサービスで、かつ、宮城が本当に野田秀樹を尊敬しており、尊敬しているからこそただモノマネをするのではなく自分なりの作りかたをするのだ、というメッセージがよく伝わってくる舞台だった。
宮城が『野田秀樹の真夏の夜の夢』という比較的マイナーな作品を演出すると聞いた当初はその意図がわからず困惑し、なぜもっと傑作の誉れ高いもの(たとえば『野獣降臨』)をやらないのかとも思っていたのだが、要するにこの作品の面白さを宮城ほどに私はわかっていなかったのだ。夢の遊眠社解散直前、「軽さ」と「幼児性」が野田秀樹の戯曲の基調音だと世間でまだまだ思われていた1992年に、憎悪が生み出す幻想という最近の野田戯曲に共通する主題にもつながるような(しかし繰り返すが、かつてに比べてはるかに質は低い)主題の作品を『夏の夜の夢』の筋立てに託して書いていた重要性は大きい。しかしそれは今になってわかることで、当時は人気の高まりに乗じて野田が商業演劇のためにでっち上げた作品という認識が大勢を占めていたと記憶する。このように、どこが面白いのかわからない作品を見つけてきて面白く演出する手腕も一流の証拠といえるだろう。
最後に、私の座席の、通路を隔てた隣の中年女性は劇中殆ど寝ており、終わると笑顔で拍手していた。その後係員が誘導していたから、公演終了後の「ふじのくに ⇄ せかい演劇祭2011」開催式に参加するために招待された静岡県の議員か、高位の行政官かなにかなのだろう。この国の政治家や官僚の芸術的教養のなさは今に始まったことではないが、目の前でこんなに素晴らしいものが繰り広げられていても、気づかなかったこの女性を軽蔑するというより、憐れみを感じた。豚に真珠とはこのことだと思った。
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宮城聡演出『野田版 真夏の夜の夢』@静岡芸術劇場、2011年6月4日
見終わって滂沱の涙。宮城聡のおかげで野田秀樹の戯曲で泣く、という経験がどんなものであるかを二十年ぶりに思い出した。俳優が舞台を走り回り、美文調の台詞を朗々と聞かせる。ただでさえ複雑な筋立てが超特急で展開するので、観客は頭がついていけずただ圧倒され、それでもわけのわからないながらに野田の祈りにも似た切実な思いが舞台上のさんざめく熱気を通し伝わってきて、いつの間にか涙に暮れている。
インプットされる情報の多さに知性はオーバーヒートしてうまく働かなくなってしまっているのに、感情だけは舞台で起きていることに敏感に反応して涙を流している。そんな自分への驚きも含め、一九八〇年代小劇場演劇を同時代人として立ち会った人間において、夢の遊眠社の公演の幕切れで涙することはまさしく特権的瞬間であるだけでなく、その後も長く記憶の核として残るような濃厚な体験だった。残念ながらロンドン留学から帰ってきて以降の野田の戯曲の質は、いくつかの例外をのぞけば極端に落ち、また夢の遊眠社全盛期ですらも感じられた演出家としての資質のなさが露呈している現在、野田地図の舞台は往年の見る影もない。
しかし宮城はかつての野田秀樹がどれほど素晴らしい作品を書いていたかをまざまざと思いおこさせた。しかも演出家としては野田を遙かに上回る手腕で。かつてのように一つの手法に拘るのではなく、次々と新たな手法を繰り出すことで、濃密な意味に満ちた舞台空間を維持できるようになった宮城は、さらに腕を上げたといえるだろう。
すでに『ペール・ギュント』において、空間を文字通り縦横無尽に使いこなすその巧みさは目立っていたが、今回は、俳優たちが天井からつり下がる梯子やロープを上り下りし、舞台奥に演技もする打楽器オーケストラを配置し、擬似バロック様式の舞台装置と相待って18世紀フランス宮廷演劇もかくやと思わせる猥雑さを醸し出す。オーケストラを指揮する棚川寛子の劇伴も、新聞紙をいっせいに破る音を取り入れたりごった煮の面白さをいや増す。
『二人の女』で露呈した俳優の練度の低さがSPACの問題点だったが、今回はメフィストフェレスの渡辺敬彦、オーベロンの貴島豪、パックの牧山祐大、福助の小長谷勝彦をはじめとして、格段にレベルが上がっている。とくに渡辺敬彦はたぶん素では人の良い小心な人なのだろうが、それを舞台で見せずに、もっと傲慢になりきれれば、かつての紅テントの名を高らしめた名優たちと同様、最高に「魅せる」役者になれるだろう。
戯曲がシェイクスピアの原作の筋立てをほぼ忠実になぞる前半は、俳優は会話をしていてもお互いに向き合うことなく、客席正面を向いて言葉の意味がはっきり通じるのに十分なほどゆっくり語らせるなど、夢の遊眠社時代の野田演出の片鱗も見せない。その一方で、メフィストフェレスがパックの役を奪い、物語がいかにも野田作品らしく錯綜していく後半になると、俳優たちは夢の遊眠社時代の野田秀樹や上杉祥三や段田安則のように歌い上げる。往年のファンには嬉しいサービスで、かつ、宮城が本当に野田秀樹を尊敬しており、尊敬しているからこそただモノマネをするのではなく自分なりの作りかたをするのだ、というメッセージがよく伝わってくる舞台だった。
宮城が『野田秀樹の真夏の夜の夢』という比較的マイナーな作品を演出すると聞いた当初はその意図がわからず困惑し、なぜもっと傑作の誉れ高いもの(たとえば『野獣降臨』)をやらないのかとも思っていたのだが、要するにこの作品の面白さを宮城ほどに私はわかっていなかったのだ。夢の遊眠社解散直前、「軽さ」と「幼児性」が野田秀樹の戯曲の基調音だと世間でまだまだ思われていた1992年に、憎悪が生み出す幻想という最近の野田戯曲に共通する主題にもつながるような(しかし繰り返すが、かつてに比べてはるかに質は低い)主題の作品を『夏の夜の夢』の筋立てに託して書いていた重要性は大きい。しかしそれは今になってわかることで、当時は人気の高まりに乗じて野田が商業演劇のためにでっち上げた作品という認識が大勢を占めていたと記憶する。このように、どこが面白いのかわからない作品を見つけてきて面白く演出する手腕も一流の証拠といえるだろう。
最後に、私の座席の、通路を隔てた隣の中年女性は劇中殆ど寝ており、終わると笑顔で拍手していた。その後係員が誘導していたから、公演終了後の「ふじのくに ⇄ せかい演劇祭2011」開催式に参加するために招待された静岡県の議員か、高位の行政官かなにかなのだろう。この国の政治家や官僚の芸術的教養のなさは今に始まったことではないが、目の前でこんなに素晴らしいものが繰り広げられていても、気づかなかったこの女性を軽蔑するというより、憐れみを感じた。豚に真珠とはこのことだと思った。