『チェーホフ?!』=チェーホフ!!

タニノクロウ作・演出『チェーホフ?!』を見終えた瞬間、アルキメデスがアルキメデスの原理を発見した際に「ユーレカ!!」と叫んで浴場から走り出て行ったように、私は「チェーホフ!!」と叫んで東京芸術劇場から走り出て行きたくなった。「チェーホフ!!」と思わず叫んでしまうような、これまで見たことのないチェーホフがそこに「いた」からだ。ドラマツゥルク・鴻英良が持ち前のパラノイア的熱意で翻訳した、チェーホフや世紀末ロシアについての浩瀚な資料をもとに、タニノクロウは妄想の力によって、この新たなチェーホフを幻視し、観客のまえに召喚してみせてくれた。

チェーホフの作品に登場する人物は、みな自意識過剰であり、永遠の中二病にかかっている。『桜の園』に出てくる執事エピホードフは、誰も気にもとめていないのに、いきなり「僕は進歩した人間で、いろんな立派な本を読んでいるが、それでいてどうしても会得できんのは、結局ぼくが何を欲するか、つまりその傾向なんですよ——生くべきか、それとも自殺すべきか、つまり結局それなんだが、にもかかわらず僕は、ピストルは常に携帯していますよ」と言い出したあげく、周囲にやさしく黙殺される、たいへんイタい人物であるが、ほかの人々も似たりよったりのイタさを抱えている。

それは、チェーホフ自身が、自意識の牢獄——サルトルが『出口なし』で描いたまなざしの地獄——に縛された囚人だったからだ。自らの思考内容を反芻し、自己憐憫にひたるかと思えば相対化し、宇宙の永遠に比べて自らの卑小さを嘆き、しかし自意識の引力圏から逃れることができずに、「吾」(コギト)の周りをぐるぐる回り続ける。それがチェーホフの世界であり、私たちがこの世界に立ち入ることを許されるのは、ただチェーホフの登場人物たちが抱く苦悩を理解し、共苦の感情を持つことによってのみだと思われていた。

『チェーホフ?!』は私たちのそのような思い込みを粉砕した。チェーホフを自意識の牢獄から解放することによって。チェーホフの想像力が、スラブ民話をはじめとするロシアの大地に根ざした民間伝承と地続きであることを示すことによって。『チェーホフ?!』に出てくる魔女(篠井英介)は、ムソルグスキー『展覧会の絵』で知られた妖婆バーバヤガーと同類である。巨人バガトゥイリが登場するのは、チェーホフが見えないものを見て、聞こえないものを聞く、同時代の民衆の前近代的心性に親近感を持っていたからだ。

たしかにチェーホフの小説や戯曲から、こうした「不思議さの感覚」(センス・オブ・ワンダー)を感じ取ることは難しい。だが、近代人の気取りとしての自意識が衝立のように隠していた、チェーホフの心の奥底にあるこうしたイメジャリを、タニノは私たちに示してくれる。

『チェーホフ?!』の登場人物は誰一人として自意識を持たない。主役は少年であるが、マメ山田が演じることからわかるように、幼いと同時に年老いている。つまり、「大人」のわずらわしい自意識を持たない存在なのだ。魔女もそうだが、巨大な乳房を持った女(毬谷友子)や太鼓腹の男(手塚とおる)、そして岸田劉生の描く麗子が額縁から出てきてそのまま年をとるとこうなる、といった姿の老婆(蘭妖子)たちは、この世ならぬ存在であり、少年を導くとともに惑わす役割を担っている。

『苛々する大人の絵本』『ダークマスター』『Mrs. P.P Overeem』など、タニノクロウがこれまで作り上げてきた作品では、膨れあがった自意識そのものが舞台に出現する、という印象を与えるものが多かった。タニノもまた、永遠の中二病患者なのだ。だからこそ、タニノがチェーホフに取り組むにあたって、自意識を敢えて描かない、という選択をしたことは興味深い。優秀な精神分析医は、患者の重大な抑圧をあえて放置して、もっと些細な抑圧から取り除くことによって治療することがあるという。精神科医であるタニノがチェーホフを、あるいはチェーホフと同様中二病に取り憑かれた私たち観客を、「治療」するにあたってとった手法もそういうものなのだろう。

しかし、この少年は本当に少年期のチェーホフなのだろうか。少年はつねに本を携えている。魔女たちは本を取り上げようとする。書物から知識を得ようと懸命になっている少年に、もっと自分の周りの現実を見ろと唆す。だが少年は「人間とは何か?」という自意識がもっとも美しく結晶した問いに、本を読み上げることで答える。人類の英知の宝庫としての書物を全幅に信頼することと、それがたんなる現実逃避でしかないのではないかという疑い。これこそがチェーホフが抱え、生涯解決し得なかった矛盾であった。前近代性を色濃く残すロシアの片田舎にあって、日々の暮らしのわずらわしさに目をつぶって書物を読み続けることはよいことなのか。貧困と無知という忌まわしい現実を厭悪して文化のある生活を夢見ることが正しいことなのか。チェーホフの登場人物たちはつねに自問自答するが、タニノは少年に与えられた一種の運命としてこの矛盾を表現する。最後に少年と書物の関係がどうなるかは、舞台を見てのお楽しみとしたい。タニノの「答え」に納得するかどうかは観客一人一人に任されている。

俳優の才能とはまず何よりも美しい身体の、手の、足の動きなのだということをあらためて教えてくれた篠井、毬谷、手塚らにはただ見とれるばかりだった。少年が次々と目の当たりにする、妖しい美しさに満ちた幻想的な世界については多くの評者が論じるだろうが、タニノの描いた絵コンテをビビッドに再現した美術の田中敏恵の力量にはうならされた。「煙草の害について」の一場を演じかける蘭妖子は縄で縛られて登場し、オールドアングラ演劇ファンに天井桟敷の舞台のときの記憶をまざまざと思い起こさせるが、これには衣装の太田雅公の才能が大いにあずかっている。舞台で起きていることを、ときには描写し、ときにはからかう、そんな音楽を生みだし、良質のオペラ体験に近いものをもたらした作曲の阿部篤志の実力も褒め称えなくてはいけない。そして小劇場の限界を明らかに超えた、緻密かつ大がかりな照明デザインの山口暁には、最大限の賛辞を捧げたい。演劇をみて幸福になるという単純な喜びを味わいたければ、さあ、『チェーホフ?!』に足を運ぼう。

This entry was posted in 日本の同時代演劇. Bookmark the permalink. Trackbacks are closed, but you can post a comment.

Post a Comment

Your email is never published nor shared. Required fields are marked *

*
*

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>