タニノクロウ 人と作品(1)タニノ作品とヨーロッパ映画

タニノクロウの作品を見ると、いつもヨーロッパ映画を思い出す。とくにアンゲロプロス、タルコフスキー、パゾリーニ、フェリーニ、それにメキシコのホゾロスキあたり。彼らは撮影現場に漲る空気感としかいえないものを切り取ることに命を賭ける。物語を語ることにもそれなりに熱心になるけれど、完璧な構図の渾身のショットを見せるためにはテンポを平気で犠牲にする。子供の残酷さと純粋さの入り交じった視線で、ものを、世界を、凝視し、人間は風景の一部に過ぎないことを示す。

同じく、タニノクロウも、物語の展開よりも舞台に出現する世界のありさまとその変容に関心を示す。『ダークマスター』がそうだった。ものにたいする偏執的なこだわりを見せる。『Mrs.P.P.Overeem』がそうだった。人間から霊性を、神聖さを、自明なこととして奪い取り、かわりに醜い、死すべき身体を露わにする。『苛々する大人の絵本』をはじめとして、タニノ作品は笑いに事欠かないが、それはゆえなき悪意にみちた嘲笑だとも、絶望の果ての哄笑だともとれる。

ヨーロッパ映画の巨匠たちの作品は観客に凝視を要求する。映画館の固い座席で息を詰めて見入り、五感を総動員して表現されているものを掴もうとしなければ、全身が至福に包まれるあの体験は味わえない。それはインターネットやテレビのようなザッピングが容易なメディアに日々囲まれ、こらえ性をなくしてしまった私たちが半ば忘れかけている感覚であり、映画館で見るより家庭の大画面テレビで何かをしながら映画を見るほうが普通になってしまった現代にあっては、むしろ劇場が提供する愉しみになった。

劇場で二時間近く拘束されて、作品に向き合うしかないと覚悟を決めれば、最初は無意味だと思えた対話が豊かな隠喩に満ちていることに気づく。自分が日々生きている現実とはあまりにもかけ離れていて入り込めそうもないと思っていた世界に新鮮な驚きを感じる。演劇は演者が、ついで観客が、存在の変容を経験する芸術である。タニノクロウの作品を見ることは、日常生活ですっかり鈍重になってしまった自分の感覚がリセットされ、鋭敏になっていることを発見することなのだ。

This entry was posted in 日本の同時代演劇. Bookmark the permalink. Trackbacks are closed, but you can post a comment.

Post a Comment

Your email is never published nor shared. Required fields are marked *

*
*

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>