『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』02

最初はちょっと長いが、日活存続のために大谷がしたことについて。

堀久作「日活の恩人」

 昭和十六年八月、日米間の空気が険悪になってきたので、政府は、所謂映画新体制なるものを唱え出した。その狙いとするところは、映画製作機構を一つにまとめ、映画製作に対する強力なる統制を行わんとするもので、業者の反対と運動とによって、当初の一本建即ち一社案(全映画製作会社を一丸とする)が二社案(製作会社を二社とする)となり、つに製作機構を三社に、配給機構だけを一元的にまとめることに決定した。ここまで取り極められるには、内閣情報局と、内務省と、文部省の関係役人と、業者との間に数十日にわたる交渉が繰り返された結果であった。

 製作機構が三社に決定した場合、松竹、東宝、日活であろうとは、誰の考えも同じであった。ところが、松竹と東宝はそのままで日活は他の群小会社を抱き込んで一社となる、というのである。それも日活に合併されるならばまだしも、日活、新興、大都を対等に合併せしめて新たなる国策的映画会社を創立しようというのである。これは、普通の常識では考えられないことであった。合併による三社案なら、新興キネマは当然同系資本の松竹に合併されるべきであり、日活は大都を吸収し、東宝は他の群小会社を抱擁するのが一番合理的であった筈である。

 しかるに、話がここまで進んでいるのに、日活の重役連は、殆どこの問題に無関心で情報局の意のままに従っていた。当時の重役としてみれば、日活がどうなろうと、消えて無くなろうと、自分たちさえ、新設会社の職に留まることができれば、それでよかったのかもしれない。その証拠には、大蔵氏を除く、会長、社長、専務、その他の取締役、監査役の中で、一人として、重役に就任するに必要な、僅か二百株の資格株すら所有しておらず、各人の資格株は、松竹、東宝の所有している株式の中から借り受けているに過ぎないのであるから、会社に対する観念というものが全然違っている。だから情報局のいうがままに、日活の運命を任せたものであろう。

 この時、私は(当時私は、大株主の一員であった)、東宝の了解を得て、大谷氏と会見した。現在の重役に任せて置くと、日活は破滅するかもしれないから、この際、全重役の退陣を求め、新たなる重役によって、情報局との交渉を進めたい、それには松竹より大谷氏が出て、東宝より吉岡氏が出て、両者の共同責任により事態を収拾して貰いたい、と進言したところ、大谷氏も即座に承知してくれたので、その線に沿って、東宝、松竹の両社より現任重役の総退陣を要求することになった。これがために、紛糾を醸して、ついに重役の業務執行停止の仮処分にまで事件は発展したが、十月中旬に至って、漸く全重役は円満退社と云うことに話合いがついた。昭和十六年十月三十日の株式総会において松竹側より三名、東宝側より三名、中立より三名の新重役が選任され、会長に大谷武二郎氏、社長に吉岡重三郎氏が就任し、両社は共同代表となって社務を見ることとなった。私も、大株主の一人として平取締役として二度の勤めをすることとなった。

 そして、情報局の新体制問題に対する交渉は、吉岡新社長と加賀常務がもっぱらあたることとなったが、この交渉がまたなかなか日活のために有利に展開しそうもない。

 というのは、吉岡氏は東宝の前社長であって、日活本位に進んでも差し支えない立場にあったが、加賀氏の場合は非常に微妙なものがあった。加賀氏は日活の常務であると同時に、新興キネマの監査役でもあったから、両社に籍を有するものが、両社の合併に関して、善良なる管理者としてその任務を完全に遂行することは困難であろう。

 新興キネマは、白井、大谷兄弟の殆んど個人経営に等しい会社である。従って新興キネマの生死は、松竹に直接大きな影響を及ぼす問題である。加賀氏はその大谷氏の推挙で新興キネマの監査役となり、また日活の常務となったのである。

  加賀氏が非常に苦しい立場であることは同情できる。が、情報局の希望するままに、日活、新興、大都を対等に合併させようとしても、三者はそれぞれに資産内容が違うから無理である。

 第三者をして公平に合併案を立てさせたら、おそらく新興を二分の一に減資し、大都を十分の一に減資させた上で、日活に吸収せしめるのが順当であろう。しかるに対等合併せしめて、新たなる国策会社を創ろうとするところに、情報局の役人等に不純なものがあった、といわれても仕方がない。

 私は、この成り行きを見て目し得ず、大谷会長に、関係者の緊急会議の招集を求め、「日活側より情報局に出席する交渉委員を、加賀氏の代わりに、堀を出して貰いたい」と申し入れた。私の希望はかなって、昭和十六年十一月下旬に開かれた情報局の会議に、初めて出席することを得たが、会議は情報局他関係各省の役人と、日活、新興、大都から各二名の委員が出席していた。劈頭、吉岡社長は、今回、加賀氏に代わって、堀氏が日活の委員となった旨を述べ、紹介の挨拶をなしたところ、情報局の不破課長は、頭からこれを拒否する口吻を持って、まず堀を委員として認めるか否かを全員に諮ろうとした。すると内務省の中野委員は、公平な立場から、「堀氏を委員として認めても一向差支えないではないか」と強く主張されたので、私は委員として正式に発言を許されることになった。

 情報局の不破氏等が、私を交渉相手とすることを好まないのは、私が情報局の対等合併に真向から反対し続けて来たためである。私は「合併はあくまで、合併会社の資産によって比率合併とすべきである」と主張して譲らず、「政府が、これに総動員法を発動して強制的に合併を命令するというならば兎も角、日活は和議法に基づく和議会社であるから、全債権者の同意がなければ合併することはできない、情報局が任意合併を慫慂する段階にあっては絶対に応じられない」と頑張って、第一次会見を終わった。

 この理詰めな日活の態度に、情報局案は一時暗礁に乗り上げ、新興、大都の焦燥ぶりは、大変なものであった。

  そこで、日活を除いた以外の業者と、情報局との間に、私的交渉が盛んに行われたが、その交渉の概略は、心ある業者から日活に内報されるので、日活はこの情報に基いて将来の案を建てるのに、大いに益するところがあった。

 私は、遠大なる計画の下に、日活の製作部門を切り離して、これを現物出資とし、その代償として新会社の株式を受け取り、ひとまず新体制の枠内を切り抜けようと決心した。

 情報局の慫慂する合併案に対し、利益を得るのは、松竹であり、大谷、白井の両氏であった。何となれば、新興キネマの株式を全部持っておるからである。そこで、私は、大谷氏を松竹本社に訪ね、約二時間にわたって懇談し、日活は、製作部門を切り離して新会社に現物出資として提供し、日活の母体は、興行会社として再発足する、それ以外に良策はない、と私は強調したところ、大谷氏は、じっと考えておられて、「君の案に賛成しよう」と言われた。私は、飛び上がらんばかりに喜んだ。この大谷氏の賛成は、大谷氏個人としては、大変な犠牲であった。新興キネマが無傷で日活に合併されれば、大変な利益であったが、日活の製作部門だけとの合併では、利益は半減してしまう。それを承知で、私の案に賛成したことは、大谷氏は、筋を通す人であり、己の利を捨てて道についたこの大谷氏の態度は、実に立派であった。これこそ真の実業家であると、私は感服した。

 そこで私は、情報局と第二次会見の日である十二月八日、大いに闘う準備を調えたところ、昭和一六年十二月八日ついに宣戦の詔勅が下り、日本全国民は、厳粛な衝動の中に暗く閉されたのである。

 情報局の連中も、さすがに目前のこの大異変に直面し、今は理想だの、構想だのを述べている場合ではないので、私よりの提案をそのまま受け入れて、兎も角、合併新会社案をまとめることとなったのである。

 今日、日活が存在しているのは、実に大谷竹次郎氏の英断の賜であった。

(日活社長)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』二二六―二三一頁)

This entry was posted in 日本近代演劇. Bookmark the permalink. Trackbacks are closed, but you can post a comment.

Post a Comment

Your email is never published nor shared. Required fields are marked *

*
*

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>