大城立裕「七〇年代以降の沖縄演劇」「現代日本戯曲大系 月報10」(一九九七年九月)

 沖縄の文化史で、一九八〇年代は近代一〇〇年来の画期だと私は解している。一八七九年の琉球処分で、琉球王国から日本へ政治と文化を切り換えたが、その後の一〇〇年年間はおもに文化摩擦に由来する劣等感と戸惑いの時代であったといってよい。その運命的な歴史を脱けて、いま独自の文化的な方法と自信を、ある程度見つけだした、ということである。
 その助走は、一九七〇年代に文学の分野ではじまった。知念正真の戯曲「人類館」(一九七六。岸田戯曲賞)と、又吉栄喜の小説「ジョージが射殺した猪」(一九七七。九州芸術祭文学賞最優秀作)によって、それは果たされた。
 ここですこし沖縄の伝統演劇にふれたほうがよいと思う。古典劇としての組踊が一八世紀に様式を完成したが、それは宮廷芸能で、役者は貴族の子弟であった。琉球処分のあと大方の士族が食い詰めるなかで、もと組踊役者たちはその芸で口を糊することを企てて、巷に降りた。遊廓の近くに小屋掛けをし、そこでヤマトから流れてきた芸能の影響をも受けながら、新しい演劇の方法を模索した。
組踊は古代の言葉をも援用しながらの詩劇で、士族のみを観客にしたから、新しい時代を迎え庶民大衆を観客とする演劇をめざして、現代語の台詞を創るのに苦心惨憺したふしがある。その努力が沖縄芝居という形式を生み、今日すでに伝統となっている。沖縄芝居の時代になり世代が移っても、折々組踊を上演して技法が受け継がれたのは幸いであった。
 沖縄芝居の台詞まわしのなかに韻文の形を残しているのは、興味深い。それはよいが、(おそらくは同じ原因によって)数十年もプロットの脱皮を怠っているうちに、現代の写実精神のなかで生きている観客の鑑嵐に耐える作品が乏しくなった。それでもしぶとく生き延びてきたのは、それはそれとして、文化の生命力というものを思わせる。<一頁終わり>
 新劇運動では、戦後の一九五〇年代に琉球大学の演劇部OBが結成した演劇集団「創造」が目立った。その方向は軍事植民地体制への抵抗を表現することに傾いたが、創作劇を作るには時間がかかり、久しく欧米や日本の既成作品にたよった。
 沖縄新人演劇集団(略称「新集」)も、一九六〇年代の初頭に結成して土着的な創作劇をめざしたが、志を果たすにいたらなかった。
 沖縄芝居は戦火にも滅びることなく戦後いちはやく復興したけれども、現代の生活感覚におくれたために、映画、テレビに手もなく押されて衰えることになった。
 沖縄芝居の様式のなかでも、現代の鑑賞に耐える作品の試みが、かつて無かったわけではない。一九六〇年代初頭に、沖縄テレビ放送がテレビドラマをはじめたときに、拙作「思ゆらば」を皮切りに、幾人かの作家がいくつか出している。しかし、たとえば「思ゆらば」は喜劇だが、演出家も観客も、軍事植民地下の戦後的な被害者意識、悲劇感覚を脱けきっていなかったから、方法が引き継がれることはなかった。
 七〇年代は、二七年間の「異民族支配」のあと「日本復帰」をくぐって、喜劇が理解される時代になった。「人類館」一はタイムリーにそれに応えた。近代沖縄精神史を自己批判の笑いで固めた内容に加えて、台詞にウチナーヤマトグチ(方言訛りの共通語)を多用した、という画期的な新しさがあった。「創造」が製作した創作劇の第一弾である。
 一九八〇年に沖縄ジアンジアンの柿落としに拙作「さらば福州琉球館」を出したときに、沖縄芝居の新しい時代を迎えた。
 一九八二年にNHK沖縄局の復帰10周年記念事業の企画で、私が委嘱をうけ、六〇年代にテレビドラマで出した喜劇「思ゆらば」と「俺は_^筑登之【ちくど】^_」を合体させ舞台劇「世替りや世替りや」に仕立てて上演したのだが、六〇年代と違ってこんどは観客がすなおに喜劇に従いてくるようになった。琉球処分はかって悲劇的にのみ捉えられていたが、それを「復帰」という世替りにかさねて、自己批判の喜劇として見るだけの余裕が育ったようである。
 「人類館」とあわせて、自己を他者の眼で見る喜劇の意識が生まれた証を見ることができる。同時に、沖縄芝居と新劇を意識的に近づける可能性も見えてきた。一九八七年に幸喜良秀の企画で発足した沖縄芝居実験劇場は、沖縄芝居に新劇的内容を盛り込む方法を(多くは拙作を幸喜の演出で)発展させたが、第一回作品「世替りや世替りや」(一九八〇年作品を改訂)が東京で上演されて紀伊國屋<二頁終わり>演劇賞特別賞を受けたのは、方言劇の普遍化の可能性を示唆するところがある。
 方言文化が軍国主義のさなかには卑しめられたが、戦後は誇らしいものになった。が、皮肉にも方言は忘れられる速度をはやめ、観客も年寄りばかりになりそうな気配がある。沖縄芝居実験劇場などの努力で、若者や知識層の観客を育てつつはあるものの、楽観をゆるさない。
 沖縄芝居実験劇場や劇団「演」(代表・島正廣)が沖縄芝居のなかに新劇の方法を採り入れているのと対照的に、知念正真は「人類館」にひきつづき、新劇に沖縄芝居の素材を採り入れてきた。「コザ版どん底」「コザ版ゴドー」などがそれで、沖縄芝居の役者たちが客演で加わり、新劇プロットのなかでウチナーグチ(沖縄方言)をしゃべりまくっている光景は、壮観であった。
 多くの作家にとって、沖縄芝居に新劇的内容を盛り込むより、新劇のなかに沖縄芝居の素材を採り入れるのが容易であるらしく、幾人かが試みている。_^嶋津与志【しまつよし】^_は沖縄戦や戦後風景の表現に力を注ぎ、「ガマ(洞窟)」「アンマーたちの夏」が中央でも評価された。
 その傍で笑築過激団(代表・_^玉城【たまき】^_満)が、ヤングの素人をそろえてコントで始めたのをやがてドラマに昇華させ、ヤング的な新しい方言台詞で新式の沖縄喜劇を創造したのは、ひとつの文化史的な事件であったといってよい。日常的には方言を喋れない世代が方言へのあこがれを造形した苦悶の表現だといえようか。
さらに劇団「大地」(代表・_^照屋【てるや】^_京子)や劇団「衝波」(代表・照屋義彦)などの若い世代が、新劇手法のなかで、テーマや素材にときに「沖縄」を採り入れながら、さまざまな実験を試みている。-沖縄芝居の役者が高齢化していくなか で、幸喜良秀が若手舞踏家のなかから拾いあげている役者は、方言台詞をときには外国語のように修練しつつ努力しているが、全般的に作家、演出家、製作者、役者ともに新人の育ちが鈍いといってよい。
 そのような空気のなかで、国立組踊劇場誘致の運動が進められている。組踊は一九七二年の日本復帰を機に、国の無形文化財に指定されたが、地元の関係者の世論として、「能や文楽については、東京と大阪にそれぞれの国立劇場をもっているのに、これらと日本芸能の三本柱を構成するはずの琉球組踊のための専用劇場がないのは、その発展のために好ましくない」とあって、運動の趣旨に発展した。
 一九九二年にはじめられた地元の運動が、九七年に国の起ちあがりを招いた。<三頁終わり>
 この運動のなかでは、「劇場はプロの組踊役者を育てる場たるべし」ということと、「沖縄芝居公演やアジア全域との芸能交流の場をも兼ねたい」などという主張も述べられていて、めざしているのは伝統の活性化である。一九七〇年代以降には、沖縄演劇が新しい演劇を生みながら、伝統演劇と密接につながりたい、という方向へ向かっていることを思いあわせると、これから10年ほどがきわめて大切な時期だといえるだろう。<四頁終わり>

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