改良俄は大阪、新聞俄は京都

伊藤友久『偲ぶ草 お芝居三代』(非売品[伊藤友久]、一九八二年)によれば、改良俄は大阪、新聞俄は京都だという。以下、国立劇場の久保田伸子との対談「新京極 読んだり聞いたり見たり」から引用する。

久保田 その後の常盤座、明治座というのは歌舞伎はあまりかからずに、曽我廼家一座とか楽天会なんかが掛かっていたんですね。
伊藤 ご承知のように曽我廼家が日露戦争で浪花座で旗上げしてから、五郎・十郎の曽我廼家劇が人気者になりました。又楽天会というのは俄の延長なんです。
久保田 そうするとこの俄は大阪のではなく京都の俄ですか。
伊藤 そうです。
久保田 京都の俄の話をお聞きしたいのですが。
伊藤 大虎座、朝日座、布袋座……。
久保田 明治座から見ますと新京極通りをへだてて反対側にある小屋ですね。
伊藤 そうです。大虎座も朝日座も俄と喜劇の小屋でした。大阪の俄は鶴屋団十郎、大和屋宝楽、大和屋小宝楽、鶴屋団九郎というふうに、あれはいわゆる改良俄というたんです。それで売り出したんですね。京都の方は新聞俄というんです。ということは当時、今でいうニュースの役割をしてすぐに舞台にかけたんです。
久保田 台本も何もなくて。口だて芝居のようにして……。<三七頁終わり>
伊藤 そう、ほとんど軽口の掛け合いの口だてでやったんでしょうな。それまでの俄といえば卑猥なものか、あるいは歌舞伎仕立の狂言をひっくりかえしたようなものばかりやっていたんです。
久保田 よくそれでまごつくんですが、信濃家尾半とか、_^東玉【とうぎょく】^_とかいう方がいますね。それが歌舞伎の外題で嵐尾半とか實川東玉とかって出てくるんです。
伊藤 それは当時の役者の名前だけを上につけて歌舞伎芝居をやったわけです。これは噺家芝居でもよくやったんですよ。仮りに文楽が片岡が好きなら片岡文楽とか……。それで京都の新聞俄は、たにし、新玉、団五郎、東玉、尾半、南玉、茶好、東ン貴、馬鹿八、こういう所が主力なんです。それから団治、これが後の初代天外なんです。京都の新聞俄は安く見られる、気楽に見られる、それに媚笑いがあったわけですね。それで大虎座、朝日座というのは大変な人気になった。ですから京都は喜劇のはしりなんですよ。
久保田 喜劇といえば大阪が本場という感じがあるんですけれどね。
伊藤 曽我廼家は大阪が発祥ですが、楽天会は恐らく京都が出発点やないかと思いますよ。それから飄々会も京都です。
久保田 喜楽会は?
伊藤 喜楽会は大阪かもわかりません。つまり俄もだんだんと演劇的にせないかないというので、喜劇になったのが桃李会という一座です。それが後に発展して一派が出来たのが楽天会です。<三八頁終わり>
久保田 次にもう少し下って通りをへだてて向い側の夷谷座の話をお伺いしましょうか。今のピカデリーですね。
伊藤 そうです。四条から三条に向かったつき当りです。ここは初めは女役者の芝居だったらしいですね。それで身振り芝居とか浄瑠璃身振りとか、それからだんだん女役者の歌舞伎というようになってきて二流芝居なんかもあったんですが、曽我廼家が出てから五郎十郎の芝居、それから飄々会。飄々会というのは岡嶋屋の嵐吉三郎の弟子で風岡之助という人が_^時田一瓢【ときたいっぴょう】^_、これが座頭で、曽我廼家の一座の泉虎(いずとら)、これが副座頭になって、それから末広狸、清水猛、中西瓢六というような人が主力です。私の親父もそこに関係して、伊藤千成という名前でこれは娘形をしておりましたけれど、立女形に清水猛というのがいたので、その上にはいけませんでした。夷谷座では五、六年常打していたんですよ。
久保田 座付みたいにしていたわけですね。
伊藤 そうです。ということは、楽天会があっちこっち行くことになり、曽我廼家が忙しいし、第三の喜劇団になったわけです。それで夷谷座の常打だったんです。
 それから喜楽会というのは田宮貞楽さんという人が北村_^九貞楽【くていらく】^_、_^吉富楽雁【よしとみらくがん】^_、宮村_^五貞楽【ごていらく】^_、千葉万楽、そういう人を集めて作ったんです。これは喜劇というよりむしろ社会劇に近い芝居です。
久保田 それがだんだん淡海さんみたいになっていくわけですか。<三九頁終わり>
伊藤 淡海劇は、江州音頭から喜劇に転向し、だんだんとよくなって曽我廼家十郎劇の残党——太郎、田村楽太、かもめ、登喜次、白石、弁慶、そういう人を集めて十年間くらいは大変な人気でした。ここも主力は夷谷座でしたが、夷谷座が映画になってからは京都座に来てたわけです。この淡海劇は昭和になって争議があって主力が出てしまって、その時に今でいうコメディアンの大竹_^保【たもつ】^_フォーリーズが入り込んで、『踊る弥次喜多』とか『ナンセンスレビュー弥次喜多』とかのまげものレビュー、まげものナンセンスをやってたんです。でも水に油でしたからすぐに淡海劇がつぶれて、淡海さん個人が家庭劇に入るということになるわけです。
久保田 そうかといって別に淡海劇が家庭劇の前身ということはないんですね。
伊藤 ええ、もう淡海さんだけです。それから扇雀さん、秀郎さん、珏蔵(後の璃珏)さん、福太郎さんの青年歌舞伎。大変評判がよくて、秀郎さんは背は低いが芸達者な人で、当時京都では_^松喜屋【まつきや】^_の片岡秀郎さんといわれて評判でした。私らも好きでずい分見に行きました。
 夷谷座には林長之助といって盲目の俳優がいたんです。これはそこひですが、きれいな目許をしていて、『朝顔日記』の深雪、『酒屋』のお園などを十八番にしてまして、花道を綱をたよりに出てくる。迫真の演技力で、僕らも熱狂したもんです。吉十郎さんといって、のちに日活初期のスターになった人——この間亡くなった吉十郎さんのお父さんですが——、その人がよく一緒に出てきました。<四〇頁終わり>

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