劇団薔薇座の軌跡

 1977年(昭和52年)4月赤坂国際芸術家センターに於て、劇団薔薇座は、旗あげ公演を行ない、それ以後、劇団公演16回、アトリエ公演9回、提携公演8回、合同公演1回という活発な上演活動を続けている。
 しかし、野沢那智が劇団を結成し上演活動を始めたのは、じつは66年(昭和41年)7月(第一回公演ジャン・コクトー作「バッカス」)の昔にさかのぼるのである。72年7月第九回公演アルベール・カミュ作「戒厳令」で活動を中断するこの時期を第一次薔薇座と名づけよう。
 第一次・薔薇座のレパートリーは、フランス戯曲だけだった。ギリシャを祖とする西欧演劇直径のフランス劇に、焦点をしぼった舞台づくりだった。話し言葉のダイナミクス追究による内面的ドラマ形成が、第一次薔薇座の最大特色である。
 その伝統は、野沢那智がみずから編集した実習教科書「声と言葉」によって、第二次薔薇座にも脈々と受けつがれている。しかし、活動休止の雌伏期にも、リーダー野沢那智は、大きく成長をとげていった。内面的ドラマを舞台に表現しつくすには、言葉だけでなく肉体表現も必要であり、スタッフと役者との協力による空間表現も必須のものであるという総合的演劇観の持主に、彼は変貌しつつあった。
 ことに演劇空間が多様化しつつある今日、歌と踊りをもどんよくに表現手段にとりこむことを彼は望んだ。その意図はまず研究所カリキュラムに具現され、やがて第一次の禁欲的レパートリーに決別をつけ、ミュージカルをふくむ多様なレパートリーを擁して、その成果を世に問うこととなった。第二次薔薇座の誕生である。
 まず旗あげに、第一次のレパートリー、コクト-「円卓の騎士」を、赤坂国際芸術家センターという体育館式ホールで、ユニークな空間造形により上演したことは、第二次・薔薇座の性格を出発第一歩に示したものとして象徴的であった。ひきつづき、稽古場をアトリエ公演空間として解放し、やつぎばやに第一回アメリカのマレー・シスガル、第二回ロシア古典ドストエフスキ-とチェーホフ、第三回フランスのジャン・アヌイと、多彩に展開、さらにフランス喜劇の王者ジョルジュ・フェドーの代表作三本連続公演によって上演日数を3週間にも延ばし、ブロードウェイでヒットしたばかりの新作「ジェミニ」上演という豪華なレパートリーにより、アンチームなふれあい空間で、若さを爆発させる団員の熱演によって、熱烈なアトリエ・ファンを獲得することができた。
 本公演のほうももちろん、このアトリエのゆたかな前衛性に負けてはいない。ことに、雌伏の研究期間中に、野沢那智がそのドラマ性をわが国でも花開かせ得ると見抜いた英米ミュージカルの異色作「セレブレーション」「アップル・トゥリー」「地球よ止まれ、俺は降りたい」「ローマで起こった奇妙な出来事」「グリース」を次々と外部スタッフの貴重な協力も得て、劇団の総力をあげ果敢にその舞台化に挑んだのである。さらにその後、ブロードウェイでヒットしたシリアス・ドラマ「デストラップ(死のわな)」と「ベント(ねじまげられて)」の2作を俳優座劇場にかけて成功、ストレート:プレイの上演にも実積を築いた。
 81年6月ニハ【ママ】「ローマで起こった奇妙な出来事」を松竹との提携公演としてサンシャイン劇場で再演、82年5月ふたたび松竹との提携公演としてサンシャイン劇場で「グリース」を再演、10月には、初演以来の好評にこたえて「アップル・トゥリー」を俳優座劇場で再々演。こうして薔薇座は劇界に確固たる地位を築き、観客の新たな期待に応じうる劇団にまで成長したといえる。
 ことに上演中のブロードウェイ・ミュージカルの舞台をそっくりそのまま真似て、日本に直輸入しようとする興行資本のやりかたとはちがって、あくまで自主的な価値判断に基づく野沢那智のレパートリー選定には、強力な理解者もあらわれ、野沢演出、雪村いづみ主演「旅立て女たち」が、薔薇座
 【改行ママ】参加の異色公演として、81年度3月から9月まで原宿ラ・フォーレでロングラン、その後、郵便貯金ホールの再演に続いて全国各地で公演、さらに83年度芸術祭参加公演として、主演の雪村いづみが優秀賞を受賞したことは特筆に値する。
 そののち、劇団外部の役者や他企業との提携公演が増えるにつれて、劇団の体質はじょじょに変貌を遂げていった。そして、いい意味での〈ひらかれた劇団〉として、外部の才能といつでも協力しあえる体制が、自然にできあがった。85年5月サンシャイン劇場「グリース」82年12月シアター・アプル「飛べ!京浜ドラキュラ」85年3月本多劇場「覗きからくり遠眼鏡」85年7月博品館劇場「ベイビー」がその成果である。しかしその間に、第一次、第二次を通じてなお劇団にのこっていた「外界と絶縁して団結をかたくなに守る」という日本新劇団に共通の姿勢は、いつのまにか崩れてしまった。
 84年12月前進座劇場「ベント」再々演、85年1月労者会館「クライムズ・オブ・ハート」85年5月俳優座劇場「キング・オブ・ハーツ」の成果を最後のみのりとして、第二次薔薇座はその幕を閉じた。劇団活動を推進してきた玄田哲章、椎橋重、鈴木清信の三人をはじめ、主要メンバー十余名が劇団を去った。そして、残された者の大半は、80年以後に入団した研究生ばかり、しかもほぼ全員女性という異常事態が生じた。さすがの野沢那智もこのときばかりは劇団解散まで一時は覚悟したようである。
 しかし、80年代に同時進行していた劇団姿勢のオープン化と、この異常事態に勇敢にたちむかった若々しいウーマン・パワーが、難なくこの障害を突破した。85年12月新宿シアター・TOPSこけら落とし「踊れ艦隊のレディたち」を皮ぎりに、86年5月稽古場での久々のアトリエ公演に、イギリス現代作家アラン・エイクボーンの作「来られない夜に乾杯!」を薔薇座育ちの斉藤重紀が演出、8月博品館劇場では、好評による「艦隊のレデイ」再演、10月新宿シアター・モリエールこけら落とし「ミスター・シンデレラ」11月12月とつづけて、札幌と下北沢の本多劇場における野沢那智執念の戯曲「ベント」の第4回目上演という盛況ぶりである。
 第二次薔薇座の遺産は、こうして絶えることなく円満に第三次薔薇座に受けつがれたと評することができよう。戸田恵子、笹水綾子らの先輩を後輩の女性陣が、わずかに残った劇団の男性陣を叱咤[原文は手書きで修正され口へんに太]激励し、外部の才能をあたたかく迎えいれながら、もりたてていくという第三次薔薇座の輝かしい門途を、私は心から祝福する。
(米村晰)

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