菊田一夫戯曲選集・月報

菊田一夫戯曲選集
月報・第一集

はじめに
利倉幸一
 この第一集には「花咲く港」が収められている。これは、菊田一夫の傑作の一つであり、画期的な作品であるとともに、日本の近代戯曲史にとっても画期的な作品と言える。
 「花咲く港」が書かれたのは、言わば日本の異常な時代であったが、その時代のA級劇場の帝劇に、僅かにその数年前まで浅草のしがないレヴュー小屋の台本書きであった青年が登場したのだ。これは、相当に飛躍的な出来事であった筈だ。しかし、その菊田一夫の登場は後になって顧みると、特記すべきことであるにも拘らず、そのように受け取られなかった。こういう例はこれまでの菊田一夫の歴史にはいくつも挙げられる。東宝演劇部の経営にしても、芸術座興行の確立にしても、豊かな夢の予想される帝劇の建設にしても。
 やゝ大袈裟な表現のようだが、歌舞伎興行などは別として、昭和後期の大衆演劇と言われる興行の歴史は、菊田一夫が引張ってきたとも言えるのだ。それには革新的なとか、前衛的なとか、勇ましい表現ははまらないかも知れないが、実質的には、派手にアドバルーンを揚げるよりも、着実な成果を収めているのだ。一歩一歩、しっかりした歩調。
 「花咲く港」は、芝居を作る内と、芝居を見る外の、両側の人たちをより幅広くより近くさせたという点だけでも、憶えられていてい作品だと思うのだが、そういう見かたがとかく忘れ勝ちになっているのも亦、菊田一夫のさりげない歩調を示すものである。菊田一夫は(いやな文句だが)実力者なのだ。自分のやることに理論づけもしなければ、弁明など無論やるわけがない。黙って書き、黙って演出してきた。
 これらの作品の、そのあたらせた波紋を考えると、その時のうねりはあるいは大きくはなかったかも知れないが、長く長く、今日にまで広がっているのに気づくのである。
 菊田一夫はそういう作家である。

菊田一夫・劇作略譜
(1)
 昭和五年十二月一日、浅草の玉木座が新装成って開場した。サトウ・ハチロー氏の命名になる劇団ブペ・ダンサント(踊る人形)が出演したが、十日替りの、その第二回公演に「阿呆疑士迷々伝」なる忠臣蔵の愉快なパロディと、音楽劇「メリー・クリスマス」が出て、俄然大当り。「迷々伝」の主な出演者は柳田貞一(吉良)榎本健一(大星)二村定一(力弥・大高源吾)北村猛夫(内匠頭)竹久千枝子(お軽—後の千恵子)という面々であった。――この「迷々伝」と「メリー・クリスマス」が菊田氏の、初めて劇団から正式に註文をうけて執筆した脚本の処女作であったという。
 この処女作の大ヒットをきっかけとして、同氏のいわゆる“爆笑喜劇”の旺盛な製作が、(一頁終了)玉木座その他の浅草の劇場を舞台として始まり、以後六、七年に及んでいる。昭和六年、玉木座の初春公演に出た榎本健一主演の「倭漢ジゴマ」(サトウ・ハチロー作)も実は菊田氏の作。舞台に共同便所を持ち出して、追いつ追われつの探偵と泥棒が、用を便じながらそこでバッタリ顔を見合す、双方動けない状態のままで、探偵が御用御用とさけぶ場面などがあって見物を笑倒させた。偶々小林一三翁も見物にみえて、その奇想天外にはさすがの翁も驚嘆したという。
 併し玉木座での菊田爆笑劇最大の当りは、やはり榎本健一・孫悟空の「西遊記」だったであろう。これは公演中、開館前になると、入場客の列がえんえん伝法院の塀の前に並び、それが浅草区役所の辺りにまでつらなった。エノケン氏がやがて玉木座から引抜かれて表通りのオペラ館へ、さらに松竹座の舞台へと進出して行ったのち、この時の大当りが素因だったと云えよう。
 昭和六年夏、エノケン氏のプペ脱退に先んじて玉木座を去った菊田氏は、その後、木内末吉氏経営の金竜館に移り、また再び玉木座に復帰したりしたが、その頃、藤原釜足、サトウ・ロクローのコンビに書いた「スモール・ホテル」など、爆笑ものでない、いわゆる小市民喜劇の佳作であった。小市民喜劇といえば、この本山だった新宿のムーラン・ルージュにも、菊田氏は招かれて、ほんの小期間(三カ月)だが、第一次の劇団が解散したあと、第二次ムーランを組織したこと(昭和七年夏)がある。が、結局また浅草に戻ってオペラ館(ヤパン・モカル)、玉木座……そして昭和八年の夏には、常盤座・笑の王国の文芸部に落着いた――
 笑の王国は、その年の春四月に、徳川夢声、古川緑波、渡辺篤、大辻司郎ら映画、漫談畑の喜劇人が三益愛子、清川虹子、滝花久子らの女優を加えて旗上げした劇団。劇団名は古川緑波が佐々木邦著のユーモア小説集「笑の天地」から思いついて命名したものと云われるが、その緑波自身は昭和十年七月、この劇団と分れて単独に一座を組み、東宝企下の有楽座に出演。菊川氏らやがて、招かれてその立作者となっている。
 以下は——菊田氏が右の常盤座から東宝に移籍した、昭和十一年秋以後の、主な劇作活動のメモである。浅草での、いわゆる爆笑劇作家時代を菊田氏の劇作第一期と仮りにすれば、この昭和十一年代から終戦後・初期までの間は、けだしこの第二期といってもよい。
 昭和十一年(1936)
 浅草・常盤座の笑の王国にサトゥ・ハチロー原作「青春五人男」「純情一座」「僕の東京地図」、獅子文六原作の「金色青春譜」オリジナルもの「春に興ずむ」「桑名の殿様」などを書く。
 十月、株式会社東京宝塚劇場(現東宝)に入社。有楽座・古川緑波一座に「ギャング河内山宗俊」(十一月)「歌ふ金色夜叉」(十二月)を書く。
 昭和十二年(1937)
 有楽座・緑波一座に二月「楽天公子」(獅子文六原作)五月「研辰道中記」(木村錦花原作)八月「メール・ブルウ」九月「丸の内オペラ」十月「ロッパ若し戦はば」を書く。「若し戦はば」は同劇団初の爆笑的戦争喜劇として大ヒットをした。(日華事変はこの年の七月に始まっている。)
 昭和十三年(1938)
 二月「海軍のロッパ」四月「喧嘩親爺」七月一弥次喜多お化け大会」八月「活動のロッパ」など、何れも快調な緑波一座が有楽に上演。十月「当世五人男」これは村上浪六原作ものの脚色で、簑助(現三津五郎)、もしは(現勘三郎)、夏川静江らの第一次東宝劇団が有楽座に上演した。
 昭和十四年(1939)
 四月「ロッパ従軍記」八月「ロッパの愛染かつら」(川口松太郎原作)「マリウス」十一月「陣中だより」「清水次郎長」などを相次いで有楽座・緑波一座に書く。マルセル・パニョルの原戯曲を、珍しく赤毛のまま十一景にアレンジした「マリウス」でロッパがセザ(二頁終了)ールを好演した。
 昭和十五年(1940)
 佳作「ロッパと兵隊」(本集の「下駄分隊」)が有楽座一月に出る。ほかに四月「東京温泉」(獅子文六原作)五月「ロッパの蛇姫様」(川口松太郎原作)九月「幡随院長兵衛」「雛妓」(堤千代原作)が緑波一座に、八月「彦左と二人太助」が金語楼劇団に書かれた。
 昭和十六年(1941)
 一月「ロッパと開拓者」四月「髭のある天使」七月「上海のロッパ」十一月「あさくさの子供」(長谷健原作)「ちよんまげ分隊長」(九州山原案)など、何れも有楽座・緑波一座の戦時下にふさわしい話題作となる。なかんずく脚色物ながら詩情とヒューマニズムにあふれた「あさくさの子供」が芥川賞作品のよき劇化として好評を博した。(十二月八日に太平洋戦争始まる)
 昭和十七年(1942)
 一月「我が家の幸福」四月「若桜散りぬ」についで七月に佳篇「道修町」九月に「スラバヤの太鼓」が有楽座・緑波一座に、五月「マレーの虎」が同・榎本健一一座に書かれている。(もっとも「道修町」は五月の大阪・北野劇場が初演)――この昭和十七、八年、菊田氏の中間演劇的現代劇の佳篇はせきを切った如くに創作され、まことに壮観といってよいさまを呈している。
 昭和十八年(1943)
 三月、名篇「花咲く港」が緑波一座新劇人の合同公演により帝劇に出る。そのほか、一月「交換船」四月「父と大学生」五月「バランガ」七月「長崎」が有楽・緑波一座に、一月「桑港から帰った女」が新橋演舞場・井上正夫、水谷八重子一座に、六月「今年の歌」九月「わが町」(織田作之助原作)が東劇・井上演劇道場に、九月「虹の翼」十月「都会の船」十一月「運河」(片岡鉄兵原作)が有楽座乃至帝劇の第二次東宝劇団に、上演されている。量的にもまことに多作の年であり、移動演劇隊の一幕物「掌」その他もまたこの年に書かれた。第二次東宝劇団というのは小夜福子、岡謙二らを中心に、戦時中の圧力で解散させられた新協の永田靖、伊達信、高橋豊子らを主力メンバーとした劇団。
 昭和十九年(1944)
 二月「雁来紅の女」が東劇・井上演劇道場に出る。次いで「今日菊」(丹羽文雄原作)が第二次東宝劇団により有楽・三月に初日をあけようとする直前、決戦非常措置による命令で主要都市の大劇場演劇は、三月以降興行まかりならぬとなった。待合、飲食店などと芝居をいっしょくたにした高級劇場戦時閉鎖令である。が、この中でも菊川氏は、七月「田舎の花嫁」八月「信子」(獅子文六原作)「結婚」(織田作之助原作)九月「あたい達でも」十月「女のある波止場」十二月「風の中の花」などの諸作を、邦楽座(現松竹ピカデリー)を本拠とする劇団・明朗新劇のために書き続けた。明門新劇とは小堀誠、花柳小菊、桑野通子らを主力メンバーとして、当時松竹の演劇担当重役だった高橋歳雄氏が運営に当っていた劇団。ほかに「蘇る青春」等の移動演劇用脚本もこの年に書かれている。
 昭和二十年(1945)
 一月「レイテ湾」を渋谷東横劇場(現渋谷東宝)の緑波一座に、「続あたい達でも」を新宿第一劇場(後の新宿松竹座)の明朗新劇に、三月「続々あたい達でも」を邦楽座の明朗新劇に、四月「安南の結婚」を渋谷東横の灰田勝彦、小夜福子らの劇団に書いて、菊田氏は八月の終戦を迎えている。「安南の結婚」に次ぐ「南風の合唱」が、戦争末期、菊山氏の最後の作品であったが、その初日(四月二十五日)の前夜、東京の山の手はB29の大規模な空襲に見舞われ、渋谷東横も被災して公演はお流れとなった。
 八月下旬「南風」九月「新風」を脱稿。前者は戦争末期に情報局より最後の仕事として委嘱をうけていた宿題の作品。後者は十一月、邦楽座に明朗新劇で上演された戦後の第一作。十月―十二月、NHKに連続放送劇「山から来た男」を書く。
 昭和二十一年(1946)(二頁終了)
 一月「サーカス・キッド」三月「舞台は廻る」を日劇・有楽座の榎本健一一座に書く。二月「山から来た男」を新宿第一劇場の明朗新劇に、三月「非常警戒」を日劇小劇場の集団日小のために書く。日劇小劇場は現在の日劇ミュージック・ホールの前身。以前は試写室だった同ホールで、「非常警戒」は初めて演劇公演を試みたもので、一ぱい道具、四幕の芝居。その芝居にまだ全くの無名であった森繁久弥が、はじめて主役を与えられて登場した。
 一月より「夜光る顔」三月より「駒鳥夫人」九月より「リラの花忘れじ」――何れもNHKへの連続放送劇。都内に劇場の数が少なくなったためもあり、この頃から数年間の菊田氏の仕事には殊に放送劇作品が数多くなっている。
 昭和二十二年(1947)
 一月に「東京哀詩」十月に「堕胎医」と、菊田氏戦後の初の大ヒット作が、千秋実らの薔薇座によって日劇小劇場に上演された。――ガード下に七人の戦災浮浪児とその浮浪児に慕われている与太者とパンパン、枯れた木の葉のように老いさらばえた浮浪者らが住みついている。「東京哀詩」はその集団の人間像をリアルな筆致で力いっぱいに描いた四幕の野心作。雪の日の朝、浮浪児とパンパンの生活を守るため、仲間のやくざの私刑をも覚悟の上でかけ合いに出かけて行った若い与太者が、そのままついに帰って来ない、最後の幕切れが感銘的だった。「東京哀詩」も「堕胎医」も夫々三月・十二月に再び薔薇座で日小に再演されている。
 四月「弥次喜多道中膝栗毛」五月・その続篇は有楽座で榎本健一、古川緑波両座の合同公演のために書かれた、久しぶりの大爆笑劇――戦前からも喜劇界の大きな宿題とされていたエノケン、ロッパの初顔合せは、果然大当りであったことは云うまでもない。
 なおこの年の七月五日からNHKの連続放送劇、記録的な聴取率をあげた「鐘の鳴る丘」が始まっている。
 昭和二十三年(1948)
 「鐘の鳴る丘」が四幕の舞台劇に脚色され一月下旬、二月中・下旬の日劇小劇場に出ている。同じくその信州篇が新劇団・創作座のために書かれ、七月の有楽座に上演された。
(以下次号)

編集だより
 「菊田一夫戯曲選集」――ようやくその第一集を皆さまのお手もとにお送りする運びとなりました。第一集には、ごらんのように菊田氏の作品中から、殊にタイトルの知れ亘った名篇を主として選び、それに珍らしい初期の作品や、テレビ・ドラマの数篇等を加えましたが、もとより知れ亘った作品といってもほんの一部分に過ぎません。
 今秋刊行の第二集には、第一集に洩れた終戦まもない頃の名篇「東京哀詩」や「堕胎医」をはじめ、日比谷芸術座の舞台をにぎわした「がっこの先生」「がしんたれ」「悲しき玩具」「越前竹人形」などの、最新作もふくめて、是非収録したいと思っております。それに新派や新国劇その他に書かれた「シンガポールの灯」「海猫とペテン師」「私は騙さない」「花と野武士」等も出来る限り採録したいつもり、なにとぞ御期待を願います。
 なお本第一集に掲載の作品は、作者自身がすでに校訂した活字本のあるものは大体それに拠りましたが、然らざるものは実際の上演にあたって、菊田氏自身が演出者として手を入れた上演台本を、出来る限りスタッフ諸氏からあさって、それを印刷原稿とすることにつとめました。が、まだ行き届かない点も若干あると思われますので、読者の御諒承をお願いするよりほかございません。
 本選集は、大体、第三集をもって第一期の刊行を終ろうという予定ですが、なにぶんにも莫大な量の菊田氏の作品……どれを採録しどれを割愛するかについては、第二集、三集の編集に、いよいよ難かしさが増すのではないかと恐れをなしています。大方の読者の力強い御支援をお願いしてやみません。
(四頁終了)

菊田一夫戯曲選集
月報・第二集

菊田さんの戯曲
遠藤慎吾
 フランスにブールバール演劇というのがある。元米パリのグラン・ブールバールの街に立ち並ぶ商業劇場で上演される通俗劇を指し、多少軽蔑的な意味を含んだ言葉だった。ところが、最近は、アカデミックな古典劇や時代の先端を行く前衛劇に対し、比較的判りやすい手法で現代を取り扱った芝居という風に解釈され、その秀れたものは、芸術的価値の面でも、決して他の演劇におとらない、と思われるようになって来た。ブールバール劇に対する評価が上って来たとも云えるわけで、それには、ブールバール劇の作者に秀れた人々が出て来て、よい作品を書いたのが、あずかって力があった。
 日本でも、歌舞伎と新派が中心だった商業劇場の芝居を、現代人の感覚に耐えるものにしようとする、いろいろの努力が行われている。そして新派ではない現代劇というものの形が、或る程度まで浮び上ってくるようになった。こういう仕事の、代表的なチャンピオンが菊田一夫である。
 彼の戯曲には、歌舞伎、新派、或いは浅草の大衆劇などの伝統的な戯曲手法が、縦概に駆使されている。笑わせたり、お客の涙をしぼらせたりを、手もなくやってのける手法には、古くからのものを、うまく利用しているのだが、それでいて新派劇の_¨あざとさ¨_やお涙頂戴の雰囲気は、ちっとも感じさせない。すべてが、ちゃんと現代の感覚にマッチしているのである。
 その秘密を適確に捕えるのは、なかなか難しい。この選集の刊行が終ったら、も一度全部を読み直して、その秘密の正体を論じてみたいと思っている。が、とにかく、その原因の一つが、現代と取り組み、それを咀嚼し、表現して行く際に、いつも基盤に流れている菊田リリシズム、菊田センチメンタリズムの新鮮さにあることは、確かである。
 「東京哀詩」、「堕胎医」などは、現代の生々しい現実を素材とした作品だが、そこには、われわれの心の底の哀愁をかきたてるような、不思議なセンチメンタリズムが潜んでいる。テーマや素材が、うまく、そのセンチメンタリズムにくるまれながら、われわれの心を揺り動かす。それが、現代の広い層の誰でもを捕える(つまり、よい意味で大衆的な)魅力を持つ原因である。
 「海猫とペテン師」は、菊田一夫得意のペテン師ものの一つだが、ここには、菊山独特のリリシズムが漂っている。ペテン師の中に人間を見出し、それを愛情をもって描き出そうとする態度の中に、菊田らしい現代に対する諷刺がひそんでいて、それが、今までの商業演劇に見られない新鮮さを生み出している。しかも、人間らしいペテン師の描写には、菊田のリリシズムが流れこみ、誰でもが、ほほえましい愛情を持たずにいられない人間像が浮び上ってくる。
 とにかく、この選集は、商業演劇を現代劇へと近づけた、里程標の記録と云ってもいい、貴重な存在である。(一頁終了)

菊田一夫・劇作略譜
(2)
 昭和二十四年(1949)
 十一月号の雑誌「日本演劇」に「南京豆と勲章」四幕を発表。NHKのラジオ・ドラマに「狂える季節」「黒百合夫人」などを書く。
 ラジオ・ドラマの前者は麻薬中毒の女患者を題材とした異色の作品。梢という女の麻薬による生態の変化が、これでもかとばかり執拗に追求されてすさまじいものがあった。後者はこの作者が好んで書く幻想劇とも名づけたいものの一つ。残酷な境遇におかれた高貴な女に、素朴でたくましい一人のアイヌ青年がからむ。夏川静江がその女主人公と前者の麻薬患者を、印象ふかく好演した。
 二十二年七月五日に始まった「鐘の鳴る丘」はNHKの連続放送劇として最初は六ヵ月の予定で企画されたもの。併しこの年もずっと書き続けられて、空前の聴取率をあげ、世評を賑わした。
 昭和二十五年(1950)
 NHKにラジオ・ドラマ「ゼイランジヤ城の幽霊」「氷雨降る」等を書く。南国のエキゾティックな雰囲気のうちに早熟で孤独な一人の少年を点出して、彼の抱く美しいものへのあこがれを描いたのが「ゼエランジヤ城の幽霊」。まことに凝って構成された音と歌とセリフのスペクタクルともいえる作品であっ たが、初演の際は時間の関係で大カットが余儀なくされ、残念な結果に終っていた。三十五年九月にミュージカルのTVドラマとして、日本テレビで再放送。
 七月「シンガポールの灯」が新国劇により新橋演舞場で“東京初演”となった。
 昭和二十六年(1951)
 連続放送劇「さくらんぼ大将」執筆の傍らNHKに「島の嵐」「秋芳洞」「浅草幻想曲」等のラジオ・ドラマをもたらす。「秋芳洞」は今日の山口県・秋吉台地の地下にある巨大な鐘乳洞にまつわる伝説を、「太平記」に出る千種少将という人物に結び付けて創作した南北朝ごろの物語。この作者には珍らしい時代劇の一部二部に亘る力作であった。
 舞台では一月の新橋演舞場に「風の口笛」二月の帝劇コミック・オペラの第一回公演に「モルガンお雪」を書く。前者は水谷良重の新派初出演のために与えた書きおろし脚本。ガード下に住む夜の女たちの生態。売れ残りのパン助(八重子)が浮浪児にそそぐ母親のような愛情がつぶさに描き出された作品。「モルガンお雪」は秦豊吉帝劇社長が、かねてから意図していた本格的なミュージカルの試みに応じたもの。二部三十場。モルガンに古川ロッパ、お雪に宝塚の越路吹雪が起用され、公演も当って二ヵ月続演した。越路もこのヒロインとしての成功がきっかけとなり、その後縷々帝劇の舞台に出演を続ける。
 十月、この作者としては稀有な未上演作品「尾道」が脱稿された。
 昭和二十七年(1952)
 三月・宝塚歌劇雪組に「猿飛佐助」五月・明治座の新国劇に「ミスター浦島」七月・同じく明治座の新派に「三等重役」〈源氏鶏太原作〉十月・宝塚雪組に「ジャワの踊り子」等を書く。「ミスター浦島」は島田正吾の扮する香港帰りの老人が、三十年前に写真結婚で破談になった女性(外崎恵美子)と偶然の機会から再会するが、互いに心をひかれながらも男は浦島太郎、女は皺だらけの浜辺の老婆で、ついに結ばれずに終る……という、歳月のかげ、人の世のペーソスが何気ない笑いのうちにとらえられた作品。
 六月よりNHKの連続放送劇「君の名は」が始まる。阿里道子、北沢彪、夏川静江、古川ロッパらの主演。この典型的なメロドラマの全国的な人気は、放送開始後、幾許もなく急上昇してラジオの聴取率は九〇パーセントをこえるという、空前の記録を立てた。二十九年四月まで足かけ三年、映画や流行歌の面でも大ヒットをみせて、この劇は連続し、終(二頁終了)っている。
 なおNHKのラジオ・ドラマに横断バス」「銀座裏生前二時」等の短篇作も、この年に書かれた。
 昭和二十八年(1953)
 明治座一月の新国劇に「海猫とペテン師」同じく六月の新国劇に「十八度線のペテン師」宝塚大劇場七月の雪組に「ひめゆりの塔」帝劇十月の現代劇公演に「縮図」(徳田秋声原作)等の諸作が、相次いで出ている。
 右のうち新国劇の「十八度線のペテン師」は一月の「海猫……」の姉妹篇ともいうべき作品であり、前作でいったん昇天したペテン師三平の魂が、地上に再び舞い戻って、中国人王中元(島田正吾)と生れ代り、共産圏と自由圏の国境で、スパイとなって存分の活躍をするという趣向のもの。「縮図」は帝劇の試みた第一回現代劇公演への書きおろし脚木。当時すでに映画化もされていた徳田秋声の最後の作品の舞台化。汚れ切った人生を歩みながらも、結婚という男女生活のひとつの落着きに、強いあこがれを持ち続けて、心の清純を失わずに死んで行く――銀子という基者の“女の一生”であった。宝塚から新球三千代がその銀子に抜擢されて力演をみせた。
 ラジオ・ドラマの方でも「君の名は」を続稿のかたわら「北京の鶯」「ナガサキ」「鷗」「ながれ」等、この年にはすぐれた短篇作品が少なくない。
 昭和二十九年(1954)
 帝劇八月の現代劇第二回公演に「芸者秀駒」を書く。宝塚大劇場十一月の花組に「ワルシャワの恋の物語」を書く。放送作品ではNHKのTVバラエティに「蛮洋先生のお正月」ラジオ・ドラマに「湯の峯」その他が昔かれている。
 「芸者秀駒」は昭電事件の女主人公と同名の芸者が舞台に動く世相劇であったが、物語の主筋は、貧しい印刷工場主の三人が、ある役所の川店係長を買収しようとして失敗する……ちっぽけだが、痛ましい汚職の悲劇。秀駒(日高澄子)と同じ家の抱妓である秀千代(新珠三千代)がドラマのヒロインで、これが右の工場主のうちの一人の娘という設定になっていた。「ワルシャワの恋の物語」はこの年の四月にラジオで大団円となった「君の名は」をダイジェスト版として、世界をポーランドに移してみせたもの。春日野八千代と新珠三千代の主演コンビ。十二月にも星組で続演されたが、三十一年の新春にも東京宝塚劇場で再演されている。
 昭和三十年(1955)
 明治座六月の新国劇に「私は騙さない」宝塚大劇場十二月の雪組に「ローザ・フラメンカ」(スペインの情熱)等が出る。「私は騙さない」は例により、作者が島田正吾に当てたペテン師瀬木三平もので、十年前に殺人事件を起し、刑をおえて出て来た三平が、恋人をたずねて、事件の起った別荘を訪れてみると、殺したと思った人間は生きていて、自分は全く別の殺人事件で、長年罪を背負っていたことが判明する。回想形式でそれが語られて行くというサスペンス・ドラマであった。
 ラジオへの作品も、「青いひとで」「橋の下」などが、NHKにこの年も書かれたが、後者は三十年度の芸術祭参加作品。刑事に追われた若い男が、自分を日本有数の財閥の御曹子であるかの如く装って、橋の下の浮浪者の群に紛れこみ、そして可憐な浮浪者の娘やその両親に、シンデレラの抱くような愉しい一夜の夢を結ばせるという、これまた一種の(三頁終了)ペテン師ものであった。なお「大盗大助」という三幕の書きおろし脚本が、この年、俳優座劇場で四月初旬に行なわれたNHK放送劇団の公演のために、書かれている。
 昭和三十一年(1956)
 (菊田氏はこの前年、昭和三十年九月二十五日より東宝株式会社取締役に就任、演劇部の最高責任者となった)
 東京宝塚劇場の二月に「恋すれど恋すれど物語」同劇場の七月に「俺は知らない」九月に「極楽島物語」十月に「百舌と女」十二月に「パンと真珠と泥棒」を書く。長谷川一夫らの東宝歌舞伎に書いた「百舌と女」以外はすべて宝塚劇場の大舞台を意識した、“東宝ミュージカル”の脚本であり、作と共に演出も菊田氏自身が受持っていた。「百舌と女」は大阪の、左り前になった材木店が舞台。その店の危急を救うために大人しい姉娘が愛人の若い番頭と別れて、金持ちの老人のもとへ後妻に行く。気のつよい妹娘に、失意の番頭を慰める船頭の兄(長谷川一夫)などが登場――往年の「道修町」に似た世界に長谷川のいい役が光っていた。
 梅田コマ劇場のこけら落し(十一月)に「姿なき犯罪」宝塚大劇場の十一月花組に「天使と山賊」NHKのラジオ・ドラマに「開かれぬ手紙」(一・二月)が出る。「姿なき犯罪」は梅田コマ独特の回り舞台をフルに活用して、豪華なキャバレーの内部をみせながら、そこで起った殺人事件を小気味よく絵解きしてゆくスリラー。三十三年の六月にもこの劇は新宿コマ劇場の舞台に、伊志井寛以下の新派劇団で再上演されている。
 昭和三十二年(1957)
 東京宝塚劇場の二月に「金瓶梅」、同三月に「すっぽん」、同九月に「メナムの王妃」を書く。芸術座の四月、開場第一回公演に「曖簾」、同九月に「ながれ」の現代劇二つをも書く。
 こけら落しの芸術座に、森繁久弥、三益愛子、八千草薫らで上場された「暖簾」は、大阪船場の昆布問屋の_¨のれん¨_を、明治、大正の頃から昭和にかけて、幾度かの災害にもめげずに守り通した男の物語。山崎豊子女史の原作であるが、脚色されたものはかなり小説とは遊離して、女ツ気も多い中間演劇となっていた。四月二十五日から六月二日まで、好評四十日間続演。芸術座の第一年目では、この「暖簾」と、もう一つの菊田作品「ながれ」のみが興行の上でも好成績を上げえたといってよい。(以下次号)

編集だより
*第一集に載らなかった戦後十年間ほどの作品中から「東京哀詩」ほか四篇、近年の芸術座への作品中から「がしんたれ」ほか二篇、「花咲く港」前後の戦時中の作品から「わが家の幸福」と「長崎」、それに菊田氏が最も放送ドラマに意欲をもたれていた頃(昭和二十年代)の作品中から連続ものでない四篇のラジオ・ドラマ――
*以上が、この第二集に入れた菊田作品の色分けですが、なお頁数の関係から第一集の月報でお約束した「私は騙さない」「がつこの先生」等数篇の佳作を、割愛せざるをえなかったのは残念でした。第三集にはこれら超過した作品のほかに、新帝劇、芸術座等への菊田氏のごく最近の、老熟した大作をも併せ載せたいと思っておりますので、何卒御期待のほどを願います。
*第二集の発売が、このようにおくれましたことも衷心よりおわび致さねばなりません。昨年五月第一集を発売まもなく、編集者が思いがけぬ重病にとりつかれ(私事を記して恐縮ながら)約四カ月ほどを無為に過しましたのが崇りました。第三集の発行をつとめて急ぎましょう。
*なお本集のまとめに当っても例により、演出台本や舞台写真等の蒐集に際して、東宝演劇部の池野満氏、新国劇の金子市郎氏、俳優の千秋実氏、菊田プロの平川明氏らにひと方ならぬお手数を煩わしました。記して厚く謝意を表します。(n)(四頁終了)


菊田一夫戯曲選集
月報・第三集

劇づくりのうまさ
杉山誠
 菊田さんて人は、劇づくりのたいへんうまい作家だと思う。観客の心の動きをよくとらえ、そのリズムのツボというものをよく心得ている。観客を自家薬籠中のものにしてしまううまさがその作品のほとんどすべてのなかに見られる。
 川口松太郎さんもうまい作家だが、そのうまさは主として筋の運びのうちに、いえば話術のうちにある。それに対して、菊田さんのうまさは、人物や場面の設定の仕方に、殊に映えるのである。
 菊田さんはいつの時代でも、いわば座付作者であったわけだが、その特別の位置を、うまくそのドラマトウルギイのなかに生かしているのだ。平たく言えば、俳優に役をはめて実にうまく書くのである。俳優を生かしながら、劇をつくるということになる。俳優と役とを結び合せて、そこに劇を生み出すというわけだ。

 たとえば、この巻に収められた「ミスター浦島」と「私は騙さない」とは新国劇の依嘱で書かれた作品だが、ともに島田正吾を主人公役に当てはめて、まことに効果を挙げているのである。島田の特質をよくとらえて、それを劇中人物として、十分に生かし切っている。俳優を考え、そこから役を割り出して、劇をつくってゆく。俳優はそこに思いのたけ腕をふるう場所を見出す。菊田作品が舞台にかかって面白いというのは、そういうところにあるだろう。
 全体としては、統一したまとまりのない、出来栄えの必ずしもよくない作品でも、そうしたことから、必ずと言っていいほど、面白い場面が展開する。
 「明治百年」は第一部の維新篇がまことに堂々とした開幕篇となっているが、その序幕に幸四郎、島田、辰巳、三国連太郎などに、それぞれふさわしい役を振り当てて、実にうまく処理しているのである。それによってこの場面は重々しく光っている。こういうところが菊田さんの劇づくりのうまさと言うべきで、もしこれだけの俳優がそろわなければ、また別の手をうったにちがいない。

しかし、こう述べて来たからと言って、俳優を想定しなければ、菊田さんは面白い芝居を書けない、と速断してもらっては困る。傑作である「花咲く港」は、古川緑波というものを頭に置いて書いたのかも知れないが、それはそれで今や作品としてひとり歩きが出来るのだ。それほどにすぐれた作品だ。
 「風と共に去りぬ」の成功の原因として、一般にそのシアトリカルな面が強調されているが、菊田さんはそこに登場する人物に決して特定の俳優を想定して描いてはおらず、それがこの劇をして、これまでの菊田作品とちがう基調を整えさせ、新しい面白さをも湧出させているのである。やはり、菊田さんは劇づくりのうまさを持っているのだ。(一頁終了)

菊田一夫・劇作略譜
(3)
 昭和三十三年(1958)
 芸術座の一月に「風雪三十三年の夢」四月に「まり子自叙伝」七月に「蟻の街のマリア」十二月に「花のれん」を書く。東京宝塚劇場のミュージカル公演に二月「金色夜叉」七月「すれちがいすれちがい物語」十二月「女優物語」を書く。
 「まり子自叙伝」は歌手宮城まり子の主演でヒットした、この年の芸術座のロングラン作品。六月廿二日まで続演され、まり子はこの作品を含めた年間の舞台成果で、三十三年度のテアトロンを受けている。虚実とりまぜて菊田氏が_¨他叙¨_したまり子の世に出るまでの物語。東宝劇場の「女優物語」は松井須磨子の半生を越路吹雪の主演でミュージカル化したもの。併しこの年の一番の労作といえば、菊田氏が八月の新宿コマに出る新国劇のために書いて評判をよんだ「ビルマの竪琴」であろう。文部大臣賞受賞の竹山道雄氏の原作を劇化したもの。
 昭和三十四年(1959)
 東京宝塚劇場の六月にミュージカル「バリ島物語」九月に「参謀命令」十一月に「ダル・レークの恋」十二月に「浅草の灯」などが上演されているが、「ダル・レーク」は春日野八千代が演出した宝塚歌劇のための作品。「浅草の灯」は昔なつかしい浜本浩の浅草小説の脚色篇。芸術座には一月に「大和撫子」二月に「がっこの先生」六月に「今日を限りの」等の諸作が出ているが、何といってもこの年は菊田氏が今なお演劇ファンの話題にのこる「がめつい奴」を秋の芸術祭に出した年として記憶されるだろう。十月五日初日、翌年七月半ばまで十カ月に及ぶ空前のロングラン記録をたてた。菊池寛賞、テアトロン賞、その他を受賞。お鹿婆さん・三益愛子(芸術祭賞)の好演が忘れがたい。
 昭和三十五年(1960)
 芸術座の八月に「天皇のベッド」十月に「がしんたれ」東京宝塚劇場の二月に「流浪物語」十一月に「敦煌」などが書かれているが、「がしんたれ」は作者の同名の自伝風な長篇小説を、こんどはドラマとしてリトールドしたもの。果然、ヒットして翌年三月末まで続演となっている。
 「敦煌」は井上靖の西域小説を劇化した東宝グランド・ロマンの第一作で、興行的には中途、主役の交替があったりして上乗でなかったが、作品そのものは、もう一度再演をの声が今だに聞かれる。力篇であった。十一月末には中村勘三郎らの扇の会(歌舞伎座)に舞踊劇「道化師」を書いている。
 「雲の上団五郎一座」という爆笑ミュージカルが、菊田氏の企画・演出で東京宝塚劇場の十二月の舞台に現れ、毎年大評判になったのはよく知られているが、その第一回がスタートしたのもこの年であった。
 昭和三十六年(1961)
 松本幸四郎父子や中車、芝鶴、又五郎らが東宝の専属となって、東宝劇場に初お目見得の公演を行なったのが、この年の六月。それに「野薔薇の城砦」という、これもグランドロマン風な作品を菊田氏は書いているが、ほかに「春、花びらの……」(舞踊劇・二月)「香港」(五月)「砂漠に消える」(宝塚歌劇・十一月)の諸作が、この大劇場に出ている。芸術座の方では六―八月に「お鹿婆さん東京へ行く」(「がめつい奴」の続篇)十―十二月に「放浪記」が上演されたが、後者は前年の「がしんたれ」で林芙美子役を好演した森光子に、こんどは出ずっぱりの、主役としての芙美子をやらせるという企画で書かれたもの。森光子、芸術祭賞受賞。テアトロン賞もこの作品に来た。
 なお二月の歌舞伎座、七世幸四郎の追善公演には本集所載の「花と野武士」が書かれている。
 昭和三十七年(1962)(二頁終了)
 テアトロン賞など受賞の「放浪記」が、この年も三―五月に芸術座で上演されている。六月には「今日を限りの」も再演された。芸術座への新作としては、一月の「怪盗鼠小僧」(幸四郎そのほか)十―十二月の「悲しき玩具」があるが、後者は言うまでもなく石川啄木の生涯を、菊川氏らしい照明のあて方で劇化したもの。東宝劇場の方には二月に「女を売る船」(森繁劇団)九月に「君にも金儲けができる」(ミュージカル・コメディ)十月に「霧に消えた男」(東宝歌舞伎)などのオリジナル、それに六月に「仏陀と孫悟空」と「花の生涯」(東宝劇団)などの脚色ものが書かれたが、武者小路氏のごく短かい同名の戯曲を、愉快な五場の舞踊劇にした「仏陀と孫悟空」が、とりわけ好評であった。菊田氏らしい才気躍動の脚色。
 「君にも金儲けができる」は、芸術座の「悲しき玩具」とともに東宝創立三十周年の演劇まつりに参加した出し物。フランキー堺、八波むと志、高島忠夫、越路吹雪、草笛光子浜木綿子らが揃って好演した、華やな舞台に書かれた台本である。
 昭和三十八年(1963)
 芸術座に一―二月「丼池」三―四月「浅草瓢箪池」七―八月「銀座残酷物語」十一―十二月「女の旅路」等があり、東宝劇場に二月「恐妻侍の死」四月「花のオランダ坂」六月「カチューシャ物語」七月「ブロードウェイから来た13人の踊り子」明治座に十一月「湯島切通し」新宿コマに十一月「一〇〇万人の天使」梅田コマに同じく「阿蘭陀物語」等が出ている。
 右のうち幸四郎そのほかの東宝劇団に書いた「恐妻侍の死」は松本清張作「怖妻の棺」の劇化。好短篇の巧みな脚色と評判された。「ブロードウェイから来た13人の踊り子」は実際に本場から来たジェイム・ロジャースの踊り手たちを舞台に迎えた菊田ミュージカルの雄篇。ロジャースとジェイ・ノーマンらがこの台本のダンス場面を担当、息づまるような稽古で、迫力ある舞台を展開した。「花のオランダ坂」と「カチューシャ物語」は宝塚歌劇のための台本。
 なお、東宝劇場この年の十月には、例の「マイ・フェア・レディ」の日本初演が、菊田氏の上演権獲得によって、めざましく行われた。菊田氏の製作・演出。
 昭和三十九年(1964)
 東京宝塚劇場に出た作品では二月に「蒼き狼」四月に「シャングリラ」六月に「花と匕首」七月に「クレオパトラ」八月に「砂に描こうよ」等。芸術座に出たものでは一―三月に「越前竹人形」十―十二月に「濹東綺譚」等がある。「シャングリラ」「クレオパトラ」などの宝塚歌劇もの以外は、何れも脚色であるが、同時に菊田氏のオリジナリティが多分に加味された、面白い“菊田脚本”だったと云ってよい。「蒼き狼」は染五郎の成吉思汗に比類ない迫力の演技をさせ、「越前竹人形」は中村賀津雄、森光子に大へん潤いある舞台を流露させた。「花と匕首」はこの年九月の明治座に書かれた、これも好脚色の「さぶ」とともに山本周五郎氏の原作もので原名は「夜の辛夷」。幸四郎以下に山本富士子が加わった一座への脚本である。
 この年、なお菊田氏は劇作活動以外に、芸術座で六一八月「ノーストリング」(リチャ(三頁終了)ード・ロジャース作詞作曲)九月「奇跡の人」(ギブソン作)新宿コマで十一月「アニーよ銃をとれ」等の演出に、力を尽している。
 昭和四十年(1965)
 芸術座三―五月に「有田川」六―七月に「終着駅」八一九月に「この気持を…」十―十二月に「霊界様と人間さま」を書き、東宝劇場一月に「リュシエンヌの鏡」三月に「霧深きエルベのほとり」六月に「長崎出島」ほかの作品を上演させている。新橋演舞場の七月に「誰にもやらん」(松竹新喜劇)新宿コマの十一月に「芸者春駒」(江利チエミほか)なども此年書かれている。芸術座の「有田川」は有吉佐和子の原作もの。森光子、司葉子、加東大介らの出演で上半期のよき収穫とされた。その翌月の「終着駅」は、宝塚の那智わたるが市川染五郎との共演に当てて企画された作品。往年の映画で評判だったサヴァティニの作品から脚色されたもの。「長崎出島」は山本富士子が男装の女書生で登場という、幸四郎一座の二番目ものであった。
 昭和四十一年(1966)
 この年、芸術座の一―二月には「細雪」の脚色が出て大ヒット。次いで三―四月に「女紋」大分距って十―十二月に「宴」(うたげ)の脚色が書かれている。東京宝塚劇場には一月の東宝劇団に「八幡船」七月の同じく東宝劇団に「甲府在番」の脚色、十月の東宝歌舞伎に「ぼんち」の脚色などあるが、「甲府在番」はやはり幸四郎一座に山本富士子、それに梅幸加入という顔ぶれにあてた本。松木清張原作。「ぼんち」は前に中村扇雀の主演ものとして菊田氏が脚色した作品を、再び東宝歌舞伎(長谷川一夫ほか)むきに改修した山崎豊子の原作もの。このほか三月の宝塚歌劇作品「夜霧の城の恋の物語」も菊田脚本。ほかに「雨の面影坂」という本も大阪新歌舞伎座――長谷川一夫、山本富士子の顔合せに書かれている。が、何はともあれこの年の菊田脚本の豪華版は十一月三日初日で帝劇に開幕された「風と共に去りぬ」であろう。マーガレット・ミッチェル原作小説の世界最初の劇化。文字通り空前のヒットをつづけ、漸く四十二年四月二日に第一部の千秋楽を迎えた。第二部の上演は六月一日初日。
 なお四十二年に入って、菊田氏は東宝劇場に一月「明治百年」二月「津軽めらしこ」(ミュージカル)を書き、芸術座に「縮図」(徳田秋声原作)の脚色を出して、いよいよ健在である。

編集だより
*ここに、第三集を出して「菊田一夫戯曲選集」も、ひとまず第一期の刊行をおわることになりました。本集には第二集で逸した「がっこの先生」や「私は騙さない」の佳篇とともに、その後、編集中にみっかった終戦直後の「非常警戒」や、ごく最近の作など……十篇あまりを収載しましたが、今までの集になかった宝塚歌劇への作品も、一篇だけですが「ひめゆりの塔」を加えました。
*第一集から第三集まで、頁数にして約千八百頁ちかくですが、その中には菊田氏の所謂脚色もの――有楽座、帝劇、芸術座等で大当りした非常な数の、原作ある作品――は一つも載っておりません。が、その中の相当数は単なる脚色という以上に菊田戯曲のオリジナリティが加わって、多彩な感動の場を描いている作品であります。本選集の仕上げを終って、そういう,菊田脚本、をも、またの機会にやはり活字にしておくべきではないかと感じました。
*なお、本選集に入れた上演戯曲の多くは、出来る限り、作者自身が演出にあたって手を入れた最終の台本を、当時のスタッフ諸氏からあさって、それを印刷原稿とすることにつとめました。例によって、この第三集の編集に際しても、台本や舞台写真等の蒐集については東宝演劇部の池野満氏、新国劇の金子市郎氏、俳優の千秋実氏、菊田プロの平川氏、校正に当っては小原大策氏らの熱心な御協力を得ましたことを記し、有難く御礼申し上げます。(N)

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