二代目をめぐる醜争“本家はこちらでござる”。東西二人出来た曾我廼家五郎

以下の記事は喜利彦山人氏(twitter: @kirihiko_)のご教示によった。多謝。

堺市に生まれ、昭和二十三年十月七十二歳でこの世を去るまで四十八年辛苦に辛苦を重ね、五郎劇という独自の藝風を開拓した曾我廼家五郎は千三百册の自作脚本を書き自ら演出し主演したというまれに見る天才的エネルギッシュな藝人だつた
地元の大衆から「仁輪加」芝居でもてはやされ、文藝賞まで授けられ、喜劇王とまでうたわれた曾我廼家五郎が逝いて二年有余、彼の特異な舞台に長い間親しんで來た大衆がその死をおしんだのはついこの間のことのように記憶に新しいが、たまたま二代目襲名をめぐる東西二組のみにくい爭いが大きな話題をよんでいる、彼の名跡を誰が継ぐかは、今直ちに断定はし難いが、二人出來上つてしまつた東西の五郎をめぐるみにくい爭いの眞相は、今また多くの話題を呼んでいる
西方大阪では五郎夫人和田秀子が名跡保存と旧弟子泉虎、小治郎、弁天、秀蝶らのすすめで四月五日大手前会館で二代目曾我廼家五郎襲名披露公演と発足すれば、これまたやつぎばやに東方東京でも甥の蝶太郎が後釜にと故人四十年の女房役大磯が後押につき、東宝社長川口三郎氏らの後援で三越劇場にて「本家はこつちでござる」と襲名披露公演と銘打つて出るという、東西いずれが眞の二代目の本流を継承さるべきなのか、その名跡をあずかる夫人和田秀子こと二代目曾我廼家五郎に聞けば
「五郎が亡くなりましてから五郎劇の再建にと微力ではありますが、 P・T・Aとか各團体の援助で細々と各職場團体を巡業してましたが、なんとかして劇場に出たいとその念願を捨てる事ができませんでした
それは死んだ五郎の遺業【ママ】に対する私共の出來る最大のはなむけであり、義務だと旧弟子のすすめもあり、府の方たちの御後援もいただいて一時私自身で僭越ながら二代目を継いでゆく事にしました
これはかりの地位で、藝の達者で世間樣からもこれなら二代目に適当だと自他共に認められた人が出れば、私はよろんで、今すぐにでも、その人に自分の地位をゆずるのでございます、ただ、五郎の本流の所在を明らかにするめあての襲名なのでございますが、その名跡をあずかつている私をそこのけに、東京で二代目を名乘つた甥の蝶太郎の問題が、ここまで表面化したのでは、私も默つている事もできませんから法律沙汰にしても解決しなければ、五郎の名誉のためにもたえられないしゆう聞です」
とはつきりと決意の程を示した
どこか女丈夫的な動さがあり、声も自然に固かつた
「甥の蝶太郎は以前から同座していたのですが、五郎から“お前は藝能界から足を洗つた方が身のためだ”といわれ十三年前ですが、お金を出してもらつて熱海に旅館を経営し、その間五郎が死ぬ間際まで一座【ママ】も顏を出したこともなければ、一本の手紙をくれた事のない人なのです、それが突然新聞で五郎の危篤を知つて当地までやつて來たのですが、その時はもう声も出せない重体ではあるし遺言は誰にもする事が出來ないで、息を引取つたのでございます、死後、再三手紙でうるさく
「五郎の後を継がせてくれ私は熱海で決して芝居を忘却していたのではない、グループを作つて演技の研究をしたりチヨチヨ座を結成して本格的な舞台にも出たりコソコソ勉強していました、だんだん五郎の名前も人々から薄らいでゆくいま五郎劇再建のために早く名のつて出なければ手おくれです、といつてきました。そのときでも私は蝶太郎を信じることができなかつたのですが、もし本当にお前にやる意志があるなら藝はまだまだ未熟なのだからこつちに帰えつて一緒に勉強し、これなら二代目五郎に恥しくないと人樣から認められたら二代目五郎として世間にも出られる」
といつていましたのですがそれをも聞かないで五郎の名声を出しに檜舞台に立ちいまでに【ママ】勝手に二代目と自称して大磯を証拠物件に公演しているのに相違ないのです、私は蝶太郎で名乘つて出るなら脚本も借【ママ】しもするし、よろこんで援助もしたいのですよ、だけどこの二代目五郎となると問題は個人的なものでなくなりますからね
と語つた
「若し合流してくれと言つて來たらどうしますか?」
「私は反對です、私は勝手に二代目と名乘つて出るような人とは合流はしない、また合流したとしてもうまく経営してゆく事は出來ないでしよう」
そばに座つていた後見人の弁天も
「師の名跡を壊されないように奧さんを保護していくつもり」
と氣のせいか興奮しているようだつた
古い封建的藝道の因襲をあくまでも固持するお家大事的考え、大阪方と東京の藝に對する自由な見方、いわゆる五郎劇の眞價は名前のなかにあるのではなく、継承さるべきはその喜劇の演劇的在り方の中にあるというような見解。新、旧両派の入り乱れた対立か、問題はその中に隱されているのではなかろうか?
『アサヒ芸能新聞』一九五〇年(昭和二十五)六月七日第十六面関西版

『アサヒ芸能新聞』一九五〇年(昭和二十五)六月七日第十六面関西版

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