『笑いと創造』第五集

『笑いと創造』第五集(勉誠出版、二〇〇八年)isbn:9784585031697

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立川談志「芝浜」

『立川談志ひとり会 落語ライブ’92〜’93』第三集。1992年12月9日。

談志は骨格だけしかないテキストを「作り込む」、つまりサブテキストを充実させる方向が古典落語の唯一生きる道だと信じているふしがある。たしかにそれは志ん生と圓生がとった方法である。談志は語りそのものの魅力を認めない。可楽を認めないのはまだわかるが、正蔵も同様に彼にとってみれば「本格」ではない。

取り澄ませた口調での語りはリアリズムではない、ということなのだろう。この「芝浜」でも談志はなるべく登場人物の会話だけで物語を語ろうとする。語りになると自分の口調に戻る。

ダメ亭主と連れ添った腹をくくった女房がいかに怖いか、ということを結果的に描き出している。

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タモリ「めけせけ」

『タモリ2』に収録。

出囃子は文楽『野崎』。「…でな」という語尾もふくめて声色は圓生。最初の「呼び声」比べは金馬「孝行糖」のマクラ。物語ははじめ「転失気」のようにはじまる。あとは思い出せない。わかったところまで書いておく。

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芸術祭十月大歌舞伎:昼の部

十月二十二日観劇。1階3列12番。

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芸術祭十月大歌舞伎:夜の部

十月二十二日観劇。1階19列14番。

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吉例顔見世大歌舞伎:夜の部

十一月五日観劇。1階1列20番。

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吉例顔見世大歌舞伎:昼の部

十一月五日観劇。1階2列20番。

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金原亭馬生「笠碁」

『古典落語名作選大全集』に収録されている金原亭馬生「笠碁」をiPod touchで視聴。これで二回目。もっとも音声だけであれば「笠碁」は馬生にくわえ可楽、小さんなどで聞いている。

馬生の「笠碁」は名演とされているが、一度この映像を見たときはそうは思えなかった。馬生は好きだし、馬生論のために別エントリを立てる用意もある。だが、よく指摘される馬生の「人物描写のリアルさ」というのはかなり的外れだし、少なくともこの「笠碁」にはあてはまらないと思っていた。馬生は二人の「ヘボ」の碁敵同士の表情を漫画のように誇張して表現するばかりか、さらにそれを笑ってくれとばかりに表情を凍らせたまま数秒の間をとるので、興ざめなこと甚だしい。演劇のリアリズムに慣れた観客から見れば、まるでなっていない。

だが二度目に見て、人物の掘り下げという点ではやはり馬生は秀でていたのだ、という感を強くした。とくにこの「笠碁」で重要なのは、「商売なんてどうでもいいんです」という台詞だろう。他の演者はおそらくこの台詞を入れていないはず(可楽や小さんは言っていない)。だが馬生がこの台詞を言っただけで、(おそらくは)商売を自分でおこしたのではなく、大店の主人という地位をさしたる苦労もせず父親から引き継ぎ、やることがなくて下手な碁にうつつを抜かしている登場人物の人間としての「甘さ」が浮き彫りになる。可楽であれ小さんであれ、馬生以外の演者のものでは、笠をさしたまま碁を打ち始めるほど碁に狂う人間の心理を、観客が当然の前提として受け入れなければならないのに対し、馬生はこの台詞を言わせることで、普段の生活に困窮していないからここまで碁に狂うことができるのだ、と観客が合点がいくように作っている。

馬生の「笠碁」を見ていると、私は自分の叔父を思い出す。叔父はつい最近店をたたんだのだが、それまでは父親から引き継いで、中央線沿線の駅前で中華料理店を経営していた。苦労していないわけではないだろうし、乳母日傘というほどの育ちでもないのだが、その柔和な顔は独特の甘さをたたえており、私は好きだった。あるとき叔父が暴力団がらみの麻雀で莫大な借金を作ったことがあった。それで暮らしぶりが変わるほどではなかったのだが、毎月に返済する金額は大変なものだったという。私の母親などは、自分の妹を不幸にしたといって、その夫である叔父を非難したものだったが、私はといえば、あの叔父さんならやりかねない、と思っただけだった。私は一時その店でアルバイトもしていたことがあったのだが、店が終わると寿司屋に連れていってもらい、カウンターでのふるまいかたを実地に教わったりして、私が育ったサラリーマン家庭には決してない、商人の家庭の気風というものを垣間見せてくれた叔父には、ほとんど交流のなくなった今でも感謝している。

そんな叔父を知っていると、そして、自分が中年になってあの頃の叔父の年齢に近づき、日々生きていくだけでも憂さはあるのだということを知るようになると、稼いだ日銭をそのまま賭場に持っていってすっかり溶かしてしまい、借金を雪だるま式に増やしていく叔父に、馬生の「笠碁」の登場人物と同様のやくざな商売人の渡世と、その背後にあるどうしようもない屈託を透かして見ることができるようになる。たんなる碁狂いというのではなく、そこには彼らがおかれた境遇に由来する理由があり、たとえ一時の気まぐれにせよ、「商売なんてどうでもいい」とすら言い放ってしまう、このような人物たちはたしかにいるのだと私たちは納得するのである。

その一方で、これが志ん生だったらまた違った印象を受けるのだろうと思う。志ん生が「商売なんてどうでもいいんです」と言ったならば—もっとも志ん生のは「雨の将棋」だが—たんなる彼一流の「フラ」としてしか聞こえてこないのではないか。「雨の将棋」は基本的には可楽の「笠碁」の延長にあるのだが、ややもすれば単調に傾く可楽と違って、それほど儲かってはいないがどうしても将棋に凝ってしまう二人の愚かな商人という姿は立体的に浮かびあがってくる。とはいえ、「将棋が好きで好きでしかたがない」ことはわかっても、なぜこの二人で勝負しなくてはならないのか、ということまではわからない。その点、馬生の「笠碁」は細部に至るまできっちりサブテキストが作られている。

ひょっとすると、馬生は志ん生から稽古をつけてもらったときにこの台詞をはめ込んだのかもしれないという妄想が湧く。父親はなんとなくフラで入れてみたのだが、馬生はそれを人物造形に使った、とすれば、二人の落語家の生きざまの対照が感じられて面白い。

定本落語三百題

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『昭和高座の名人たち』

金子圭三の写真がよい。別役実が可楽について書いているというので買ったのだが、別役の文章も含めて、そのほとんどは写真に添えられた毒にも薬にもならぬ文章である。しかし写真は何百倍もそれぞれの落語家について語っている。金馬とか今輔とか圓生、可楽の写真のように既視感を覚えるものも多いが、それは恐らく、いかに彼らがカメラの前で、あるいは観客の前で「芸人」として同じポーズをとり続けてきたか、ということなのだろう。馬生の若い頃は本当に坊ちゃん坊ちゃんしていたんだな、とか、正蔵や文楽の普段着姿のように、思いもかけぬ姿を見せられて、こちらが当惑することもある。もちろん彼らは芸人たることをやめていないのだけれど、高座にのぼったときとは別種のオーラを漂わせていて、陳腐な言い方だがその「生き様」が見えるようではっとさせられると同時に、何か見てはならないものを見てしまったような気もするのだ。いずれにせよ、これらは正岡容をはじめとする昔の落語家について書かれた文章を読むときはつねに手元において、その写真を参照するためにはもってこいの本である。

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『圓生百席』

ipod Touchで圓生の『火事息子』を視聴しながら帰宅。圓生はやはり見ていてもそれほど面白くない。CDで十分だ。と思ってAmazonで近頃販売された『圓生百席』207,060円を買おうか買うまいか、いやいま懐は寂しいので買えないので来年度の研究費で買おうと思っていたのだが、なんと品切れになっているよ。団塊の世代の購買力はすごいなあ。

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