宇野信夫『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』(河出文庫)

二十年ほど前に河出文庫で出た『今はむかしの噺家のはなし』を底本として若干入れ替えをしたもの。宇野信夫という人は本当に底意地が悪く、情けのない人だったことがよくわかる。圓生と志ん生をのぞけば悪口が書かれていない噺家はいない。「林家彦六は、私の学生時代の昭和初年の頃、圓楽から馬楽になって、噺家仲間では『新人』とか『インテリ』とかいわれていた」(「はしば会 林家彦六」)という書き出しだけで、すでに当時名人とうたわれていた正蔵の人気を揶揄してみせる。あるいは「戦後知りあいになった或る医者は、熱心な可楽のファンで、可楽こそ名人だ、あれだけの味のある芸人は出てこない、とまで言った」(「長いコート 三笑亭可楽」)。可楽なんて大したことのない芸人だ、とは決して書かないが、言葉の端々にそれをうかがわせるこの巧みさ。文楽でさえ「しんから文楽は気の小さい人であった」と書き、恐妻家文楽の浮気を暴露気味に、それでいてしれっと書いてみせる。いや、だからかえって面白いのだ。宇野にいわせれば「奇人」の正岡容が、宇野よりはるかに情のある筆致で噺家の人となりを描き出すのは味わいがあるのだが、読んでいて退屈にならないでもない。しかし常識人をもって鳴らした宇野がじつはここまで意地悪く人を観察し、何十年もたってからそのことを書ける、というのはやはり尋常ならざるものを感じる。

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十二月大歌舞伎:夜の部

十二月十一日観劇。一階17列28番。

「寺子屋」を幸四郎、吉右衛門、團十郎ら重鎮抜きで、勘三郎の松王丸で歌舞伎座で初上演。仁左衛門はすでに何度も演じているから、勘三郎としては相当悔しかったのではないか。勘三郎の生来の腰のすわらなさが丸本の重みに耐えきれるかと思ったが、稽古場での熱気や結束のしかたが伝わってくるようなよい舞台だった。とくによかったのが源蔵の海老蔵で、人間としての器の小ささ、そして小さいがゆえの忠義立てへの苦悩がよく表現されていた。千代の福助は丸本にしては泣きすぎという気もしたが、しかしあそこは世話物ばりにリアルにやっても許されるところだろう。封建制の桎梏よりも親子の情愛を強調するほうが当世風の演出になるわけだし。ただし、「いろは送り」のところは整理しないまま出してしまった感がある。死者を懇ろに弔うということの意味をいま伝えるのは難しいとはいえ、型どおりに演じていただけではだれるだけだ。本来の丸本の形式感をもう少し出せたらよかった。

「粟餅」。江戸前のさらりとした舞踊をやるとしたら三津五郎と橋之助にやらせるのがいちばんだろう。滑稽ななかにも見え隠れする男の色気。

「ふるあめりかに袖はぬらさじ」。杉村春子は本当に偉大な女優だったと思う。 お園の玉三郎は杉村の型を踏襲したうえで、自分なりの工夫を付け加えているのだが、しかし観客としては玉三郎の演技に杉村の幻影を重ねて見ざるを得ない。幕開けの台詞を、すうっとさりげなく、それでいて観客の胸にすとんと落ちるように発するトーン。幕切れの地団駄踏んで叫ぶ、「悲しくって」云々の台詞。すべてが杉村が考案した型であり、蓮っ葉でそれでいて純情でという性格造形は杉村春子の十八番であった。そして残念ながら、玉三郎には杉村にそなわっていた運動神経がない。台詞を言う一呼吸前に身体の奥から湧いて出た感情が思わず身体を突き動かす、杉村春子の演技を見ているときに味わえるあの希有な瞬間が味わえない。台詞と身体が正確に同期する玉三郎の身体は、やはりある種の鈍重さを観客に与える。

 しかしこの作品が歌舞伎座で上演されることの意義は大きい。文学座に書き下ろされた作品が歌舞伎の舞台にかかったのは新劇の勝利と見てとることもできようが、歌舞伎が新劇をも飲み込んでしまったと見るほうが正しいだろう。三幕のお園と籐吉の会話に流れる清元はこの作品を歌舞伎がすっかり自分のものにしてしまっていることを示している。また、二幕・三幕の岩亀楼引付座敷扇の間の装置もよい。どこにもない幻想の国日本をうまく表している。

 それにしても籐吉のずるさが表現されていなかったのは獅童のせいか、演出の戌井市郎のせいか。この作品で有吉佐和子がいちばん書きたかったのは、嘘が本当になる面白さなんかではない。嘘を嘘だとわかっていながら、自分の出世のためにそれを本気で信じ込む籐吉のずるさであり、そして「悲しくって」死んだだけの亀遊を攘夷運動の宣伝として利用していく男社会そのものの汚さである。サバルタンの声は語れない。それが語られるときには、もっと別種の公的な響きとともに語られる。そのことをずっと訴え続けてきた有吉のこの作品が誤解されている—とくに野田秀樹『赤鬼』が木下順二『夕鶴』のもっとも重要な部分である、「相手の言っていることがわからない」というところをパクっており、それを指摘するものが誰もいないような状況において—のはまことに悲しいことだ。

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十二月大歌舞伎:昼の部

十二月十一日観劇。一階21列12番。「鎌倉三代記」は所用のため見られず。「信濃路紅葉鬼揃」なんじゃこりゃ。玉三郎のわがままを松竹は聞く必要ないでしょう。「筆屋幸兵衛」、勘三郎に「おまえちょっとクサイよ」といえる人は誰かいないのか。前半、落剥した士族のニンがない。後半発狂したあとはさすがだけどね。

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『王将』(一九四八年・大映)に登場する曽我廼家十郎の紋

『王将』(一九四八年・大映)の中で、坂田三吉の天王寺の長屋住まいのときの知人、ワンタン屋・新蔵(民芸の三島雅夫が演じている)が引く屋台に、曾我廼家十郎の紋が入っている。舞台は一九〇五年という設定なので、曾我廼家五郎十郎の喜劇が同年二月のデビュー以降人気を集めはじめた頃であるから、これはありうることではあるが、相当奇抜な設定だ。

原作では、夜泣きうどん屋の新吉が、「成駒屋のイ菱の紋を染めぬいた屋台車を引き、迷惑そうに引っ張られて」登場する(『王将』『北条秀司戯曲選集一』一一頁)。舞台は大阪でもあり、また定紋が「イ菱」であることからこの成駒屋は初代中村鴈治郎である。贔屓の歌舞伎役者の紋をつけることはありそうだが、新人の曾我廼家十郎の紋をつけるというのは、原作に手を加えた人間が十郎に相当入れ込んでいた証だろう。

『王将』(一九六二年・東映)では、新蔵(谷晃)が冒頭で引いている屋台はびっくりやという文字が染め抜かれているだけであり、紋はない。あとで新蔵は背中に紋の入った半纏を着て登場するが、これも十郎の役者紋ではないようだ。新吉ではなく新蔵というところのみ、大映版を踏襲している。

この変更をおこなったのは、脚本を自ら手がけた伊藤大輔なのか。それとも、美術がその場の咄嗟の思いつきで変えてしまったのか。それを知るためには、辰巳柳太郎が主演、入江名人を島田正吾が演じている『王将一代』(一九五五年・新東宝)を見なくてはいけない。ここでは、新蔵ないし新吉ではなく、蕎麦屋新やんという役名になっている。

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読売新聞の杉山弘は劇評を書くのをいますぐにやめろ。

いろいろあって(わけはきかんでくれ)いまは読売新聞を購読している。

10月17日付けの夕刊にのった『三文オペラ』の劇評を読んで驚愕した。以下引用。

電光掲示板を使った遊び心のある案内は気が利いているが、物語の展開を先取りするような表示は少々興ざめだった。

書いたのは杉山弘。それはブレヒトが脚本に書いていることだろうが!『三文オペラ』も読んだことないで劇評を書いているのか。

知ったかぶりの中学生の書く劇評と同じレベル。杉山弘は潔く文化部を退け。演劇だけじゃないぞ、そんなやつは一切文化を語る資格はない。

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飯塚友一郎『国民演劇と農村演劇』

こうした国民的祭典に最もふさわしい形式は放送国民演劇でなければならない。何となれば、古来、故人を記念し追憶し供養するに最もふさわしい形式は、故人の生前の事蹟をさながらに演出して見せることだと信ぜられていたからだ。(九九頁、「第三講 放送国民演劇についての私案」

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飯塚友一郎『国民演劇と農村演劇』

実際の演劇は必ずしも規範的演劇論によつては支配されない。現実の劇塲を支配する力は芸術論ではなくて、むしろ、政治と経済の二つの大きな力であつた。演劇学徒の説く演劇作法や演劇政策は、これまでの天下泰平時代には、僅かに教壇の講義か、実験室的小劇場の試みを出でなかつた。わが国の如き自由放任主義の劇壇においては、何よりも商業主義が勝利を占めて、商業劇場が現在までの劇壇の主権を握つていた。商業劇場には恐らく営利以外の芸術的理想といふものがない。経済力と並んで、実際の劇場を支配する力は政治力である。劇場は現実的には、この二大勢力の支配から免れることはできない。

しかるに、支那事変を契機として、政治的支配力が非常に強化されてきた。何となれば、戦争とは政治の最も強化された状態に他ならないのだ。そこで、これからは演劇を支配する力は、これまでのような経済第一ではなくて、政治第一となる。この転機はわが劇壇にとつて実に画期的なものとして注目されなければならないことだ。私はこの転機を演劇文化の為に率直に慶びたいと思ふ。何とならば、商業には利潤追求という以外に理想というものがないが、政治にはいつも文化的理想があるからだ。従来の演劇人は極めて心易く経済人と妥協してきた。いや、営利の為には理想も見得も何も捨てゝ奉仕してきた。わが国では、演劇は概ね商品になり下つて了つた。然るに、わが劇壇はどういうものか、為政者と提携することを敬遠した。為政者も亦、演劇のことは消極的な取締だけで、之を文化政策の一課題として積極的に顧ようとはしなかつた。これは何よりもわが劇壇、否、わが国民文化の不幸であつた。

国民総力戦を要求する今度の事変は、これまで無縁だつた政治と演劇とを結びつける機運を導こうとしてゐる。私は近頃、各省の少壮官吏諸君と演劇政策に就てしば/\懇談する機会を得たが、演劇人が考へてゐるほど当局者は演劇に対して無関心でも無理解でもない。むしろ、積極的な演劇政策について非常な熱意と抱負をもつてゐることだ。この時局下並に戦後の経営の為に、文化政策がいかに重要なるかを、よく認識してゐることだ。これは欧州の新興諸国家の文化政策を一寸でも顧るならば、当然そうなければならぬことだ。私はこの時局を契機として、その辺から、わが劇壇の長い間の懸案が解決されるのではないかと、ひそかなる希望を抱いてゐる。

劇壇の懸案とは、言ふまでもなく国民演劇の課題だ。これは演劇といふものゝの複雑な機構からして、国民音楽や、国民文学や、国民体操のように簡単には行かない。(「第一講 時局と演劇」二九—三〇頁、、一九三八年)

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塩谷国四郎「戦争と演劇」『東宝』第六十号(昭和十三年十二月)

 多くの従軍作家が現地に赴いて、沢山のお土産を持つて帰つて来ることは喜ばしいことである。これからの劇壇もさらに戦争演劇が多くなるだらうと思はれる。国民は、まだ、まだ現地の事情を知りたいだらうし、そういふものを演劇を通じて知るといふことは大きな喜びに違ひないのである。

 私ばかりでなく、どういふ戦争劇が現れるだらう、どういふ風に見る人々の気持ちをえぐる戦争劇が現れるだらうといふのは、国民の大きな期待である。どういふ風に兵士と上官との間柄が、行つてゐるか、戦争をしながらみんな兵士たちは何を考へてゐるだらうなどと、これまでの戦争劇といふものゝ中に現れないいくつもの珠玉のごとき人間性を誰がつかんで来て大衆の前にさらけ出してくれるであらうといふ期待である。

 陸軍省情報部の柴野中佐が、都新聞の演芸欄で戦争劇のことを色々と語つてゐたが、面白かつた。見出しは子供欺しの戦争物、俳優も作家も演出家も軍隊用語に無知だ、セリフには噴飯ものが多いとあるたが、内容は、それほどでもなく、ほめるところはほめ、間違つたところを見事に指摘してゐるのは、さすがなものであると思つた。殊に「……一体にどうも規律正しいばかりで上官下官の間には少しも親睦の情が感じられません。温い人間味がないんです。本当はあんなものぢやありません、もつと打ち解けた仲のいゝ、現代の呼吸の通つたものですよ……」といつて、新国劇の「土と兵隊」を讚めてゐたが、少しばかり現地を見て来た私など、この鋭どい柴野中佐の言葉にびつくりしてしまつた。色々の戦争劇を見て非常にもの足りないやうな感じのするのは、この一点の足りなさなのである。すぐに、お母さんを出して見たり、細君を出して見たりするが、もちろん、そういふ根本的なものもあるには違ひないが、近代的なもつと別なものも持つてゐる。兵隊には個性があり、はげしい戦争の間にも、個人の自由もあるのである。殊に個人の欲望、道徳身についた職業のならはしといふものは、戦争では、どういふ働きをしてゐるか、生と死の境を超へた時の人間の感情の変化など、充分な演出はされてゐない。また、日本の兵士は、何時でも戦争に強いやうにばかり、舞台に現れて来る、もちろん強い、強いのだが、その強い将兵も強い日と、弱い日があるのである。これが、人間である。

 激戦のある一日兵士と一夜を送つただけで幾多の演劇的な、人間の裸な姿につきあたる筈である。だから、私は、彼等従軍作家は、きつと何か凄いものを書いてくれるだらうと大きな期待を持つてゐる。戦争ほど、大きな演劇的な要素をもつたものは、恐らくこの世の中に存在しないだらうとさへ、私は思つてゐる故、誰かゞこゝに新しい世紀の演劇を樹立してくれるのではないか知らとさへ期待してゐる。

 また、演劇の形式は違ふが、坂東蓑助のやつたレポドラマ「明け行く大陸」についてである。この芝居を私はいゝとか悪いとかいふのではない。岸田国士氏が朝日新聞に「私の従軍報告」として中支に張られた欧米の根といふことについて、中支に於ける英米仏などの資本、宗教その他、欧米人のなしつゝあるものを書いてゐたが、こういふものも、いわゆる国策演劇として、「【ママ】この明け行く大陸」が、採つたレポドラマの形式でやつたならば戦争劇の一つの形式として、まだ、将来様々の使命を持つてゐるやうに思はれるのである。

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杉山誠「演劇の再編成」『東宝』第八十二号(昭和十五年十月)

演劇人の一部には、国家による「積極的」統制を望んでいた者もいた。

……われわれが与へられた目標に到達する上に、最も強く重点を指向すべき演劇はなんであらうか。演劇全体として今こそ真剣にそれは考へられるべきである。私はそれを国民生活乃至思想に拠りどころをもつ【傍点開始】現代演劇【傍点終了】であると考へたい。こゝに国民生活乃至思想といふのは、個々の国民の生活乃至思想が全体的に包括せられ、わが国が現在完逐せんとしてゐる目標の方向に一つに纏めあげられたそれをいふのである。従つてこの新しい日本の演劇は、当然、東洋演劇の指導的立場に立つものであり、同時にそれによつて世界演劇に寄与するものでなければならぬ。かゝる演劇の創造にこそ演劇全体の重点が指向せらるべきである。かゝる演劇こそ今後の日本演劇の主流たるべきである。この主流たるべき演劇は芸術性と文化性において高度のものであり、それによつてのみ現在政治の要求する方向性と一致する。国防国家体制の樹立はわれわれ国民の一人一人にまでその責任を要求する。このことは国民全体としての思想乃至生活意識が高度化されてはじめて達成せられる。さういふ国民を鼓舞し、慰安し、反省せしむる演劇が当然叙上のやうな演劇でなければならぬといふことはもはや単なる理論ではなく、現実の要求である。かくの如き演劇の創造に立ち向へばこそ現下における宣伝劇の重要性が認識されるのである。

 大衆劇といひ、移動劇団といひ、この主流演劇からの分派であるてはいじめて新しい日本演劇の担当者の一形態となり得る。

 かうした演劇の創造に重点が指向せられるとするならば、われわれはもはや国家の演劇への積極的な関与を強く要請するよりほか道はない。従来のやうな安寧秩序の観点から出発した法律的警察的監督のみに限らず、芸術指導的立場をとるべきである。消極的取締より積極的な助長への移行である。かくしてはじめて演劇の再編成、再出発の目的は完成せられる。これについては又他日更めて説きたい。

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長田秀雄「新劇はどうなるか」『東宝』第八十五号(昭和十六年二月)

 一月十三日の都新聞は、国民演劇としての新劇の再編成を、内閣情報局と、大政翼賛会が両者の合作に於て、いよいよ着手すると報じてゐる。

 同紙の報道の内容は、略、次のとほりである。即ち、情報局は、まづ昨年解散の悲運に接した新協、新築地両劇団のメンバーに体する内務、文部、警視庁、保護監察所あたりの少壮官僚の認識を統一する為、また新劇全部を将来、国民劇として、更生せしむる為、一大座談会を催ほした。この座談会は一回限りでなくつゞいて何回か開かれ、そこで得た緒論を睨みあはせて翼賛会、情報局の対案を練ると云ふ方針のやうである。

 なほ、同紙に、民間の流布してゐる翼賛会の案なるものを掲載してゐるが、これは、まだ、一個の私案の程度を出ないもののやうに、われわれには思はれるのである。

 翼賛会文化部には、新劇に造詣のふかい岸田国士氏が、部長の職について居られ、副部長としてやはり新劇に、独特の見識を有つ上泉秀信氏が居られる以上、この御二人の意見が、必ず、情報局、及び、翼賛会の内部を指導して、将来、国民劇に発展する新劇の為、もつとも好適な機構組織がつくられるであらうことを、われわれは確信してゐる。

 凡そ一国の演劇には、さまざまのジヤンルがあるて、斉頭的に発展して行くのが、演劇文化の上からみて、もつとも好もしい状態である。併して、その【ルビ開始(ちうじく)】中枢【ルビ終了】的な存在として、現代的意義を有つ国民劇が立つてゐなければならないのは、云う迄もない。

 然るに我が国では、明治維新以来、燦然たる社会文化の発達の中に、たゞ、演劇だけが、徳川期以来の封建芸術たる歌舞伎を主流として変態的な形態を残してゐる。その結果として、あくまでも【ルビ開始(ちうじく)】中枢【ルビ終了】に居を占めるべき、現代的な国民劇が、発展せず、たゞ新劇と云ふ名のもとに、欧羅巴のシステムに模擬した無性格な現代的演劇が、わづかに文化人たちに支持されてゐたに過ぎなかつたのである。

 新劇が、国民劇として、立上がる為には、あくまでも民族の精神を把握した演劇とならなければならない。その為には、まづ、新らしいレパートリイを創りあげることが、刻下の急務である。

 われわれは、まづ、国民劇の機構組織の問題は情報局や、翼賛会の成案が出来上るのを待つことにして、劇文学、殊に、戯曲の創作を刺激し、促進することを、始めなければならないと考へる。

 かつて、文部省の社会教育局に於て、つくられた演劇法の草案が、いよいよ今回法文化されて、議会へ上程されることになつた。演劇法は、同題の法律と、それにともなふ誘導助成の施設によつて、わが国の演劇を向上発展せしむる主旨によるて立案されたのである。その誘導助成の施設は、当然、翼賛会文化部あたりが受持つべきであらう。戯曲の創作や、識者による国民劇の研究は、この誘導助成の施設に待つ所が頗る多いとわれわれは思つてゐる。翼賛会としては一面、国民劇の機構組織を立案すると共に、演劇雑誌の発行と云ふやうな事業にも、手をうけて、戯曲創作の促進を援助されることが必要である。

 国民劇の生誕にあらつて、民間で一番やかましく論ぜられてゐるのが、指導者の問題と移動劇団の問題であるやうに考へられる。

 国民劇の指導方針は、既に演劇法草案に示されているのであるから、この方針を体した指導者が出て、劇団全体を指導すればよいのである。指導者は、併し、決して衆人が考えてゐるやうに、そんじよそこらに転つてゐやしない。演劇法草案に定められたやうに国家の演劇研究所でも出来て、そこで充分な教育をうけた人々の内から、真の指導者が生まれてくるであらう。国民劇が体をそなえかつ大成するまでは少くとも三十年や五十年はかゝる。われわれはその覚悟で、じつくり構へてやつて行かなければならない。

 新劇俳優が転身さへすれば、明日にも国民劇が出来上がるやうな口吻を以て、物を言つてゐる人たちは、結局、島国根性を脱してゐないのである。

 次に移動劇団の問題であるが、これは、なかなかむつかしい問題である。おいそれと、現在働いてゐる比較的下級の俳優たちを結成させた一座で、従来の都会向きの戯曲を何らの顧慮なくそのまゝ山村漁村へ持つて廻つても、ただ、百害あつて一利もない。

 移動劇団は、簡単に云へば、農村漁村及び地方小都会の持つ郷土的文化を向上発達させるやうに刺激、促進するのが目的の一つであり、かつ、その目的によって始めて、各地の人々を楽しませ、その人々の情操をたかめらるのである。

 したがつて、その土地土地の状況によつて経済的にも、充分な顧慮が必要である。結局営利会社でやるより、国家の補助のもとにつくられる方が、よいのではないかと考へられる。

 移動劇団はまた、その劇団が、各地を巡回してゆくが、各地の郷土的文化を取入れ自己を再教育することによつて、将来の国民劇の技術を豊饒化しうると云ふ大切な仕事を持つてゐることを忘れてはいけない。

 国民劇は要するに将来のものであり、帝都に中心を置いて、その支隊を各地に移動させ、わが国の各地方の郷土的の演劇文化を斉頭的に向上発展させてゆくように構想させるべきであらう。

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