十二月十一日観劇。一階17列28番。
「寺子屋」を幸四郎、吉右衛門、團十郎ら重鎮抜きで、勘三郎の松王丸で歌舞伎座で初上演。仁左衛門はすでに何度も演じているから、勘三郎としては相当悔しかったのではないか。勘三郎の生来の腰のすわらなさが丸本の重みに耐えきれるかと思ったが、稽古場での熱気や結束のしかたが伝わってくるようなよい舞台だった。とくによかったのが源蔵の海老蔵で、人間としての器の小ささ、そして小さいがゆえの忠義立てへの苦悩がよく表現されていた。千代の福助は丸本にしては泣きすぎという気もしたが、しかしあそこは世話物ばりにリアルにやっても許されるところだろう。封建制の桎梏よりも親子の情愛を強調するほうが当世風の演出になるわけだし。ただし、「いろは送り」のところは整理しないまま出してしまった感がある。死者を懇ろに弔うということの意味をいま伝えるのは難しいとはいえ、型どおりに演じていただけではだれるだけだ。本来の丸本の形式感をもう少し出せたらよかった。
「粟餅」。江戸前のさらりとした舞踊をやるとしたら三津五郎と橋之助にやらせるのがいちばんだろう。滑稽ななかにも見え隠れする男の色気。
「ふるあめりかに袖はぬらさじ」。杉村春子は本当に偉大な女優だったと思う。 お園の玉三郎は杉村の型を踏襲したうえで、自分なりの工夫を付け加えているのだが、しかし観客としては玉三郎の演技に杉村の幻影を重ねて見ざるを得ない。幕開けの台詞を、すうっとさりげなく、それでいて観客の胸にすとんと落ちるように発するトーン。幕切れの地団駄踏んで叫ぶ、「悲しくって」云々の台詞。すべてが杉村が考案した型であり、蓮っ葉でそれでいて純情でという性格造形は杉村春子の十八番であった。そして残念ながら、玉三郎には杉村にそなわっていた運動神経がない。台詞を言う一呼吸前に身体の奥から湧いて出た感情が思わず身体を突き動かす、杉村春子の演技を見ているときに味わえるあの希有な瞬間が味わえない。台詞と身体が正確に同期する玉三郎の身体は、やはりある種の鈍重さを観客に与える。
しかしこの作品が歌舞伎座で上演されることの意義は大きい。文学座に書き下ろされた作品が歌舞伎の舞台にかかったのは新劇の勝利と見てとることもできようが、歌舞伎が新劇をも飲み込んでしまったと見るほうが正しいだろう。三幕のお園と籐吉の会話に流れる清元はこの作品を歌舞伎がすっかり自分のものにしてしまっていることを示している。また、二幕・三幕の岩亀楼引付座敷扇の間の装置もよい。どこにもない幻想の国日本をうまく表している。
それにしても籐吉のずるさが表現されていなかったのは獅童のせいか、演出の戌井市郎のせいか。この作品で有吉佐和子がいちばん書きたかったのは、嘘が本当になる面白さなんかではない。嘘を嘘だとわかっていながら、自分の出世のためにそれを本気で信じ込む籐吉のずるさであり、そして「悲しくって」死んだだけの亀遊を攘夷運動の宣伝として利用していく男社会そのものの汚さである。サバルタンの声は語れない。それが語られるときには、もっと別種の公的な響きとともに語られる。そのことをずっと訴え続けてきた有吉のこの作品が誤解されている—とくに野田秀樹『赤鬼』が木下順二『夕鶴』のもっとも重要な部分である、「相手の言っていることがわからない」というところをパクっており、それを指摘するものが誰もいないような状況において—のはまことに悲しいことだ。
宇野信夫『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』(河出文庫)
二十年ほど前に河出文庫で出た『今はむかしの噺家のはなし』を底本として若干入れ替えをしたもの。宇野信夫という人は本当に底意地が悪く、情けのない人だったことがよくわかる。圓生と志ん生をのぞけば悪口が書かれていない噺家はいない。「林家彦六は、私の学生時代の昭和初年の頃、圓楽から馬楽になって、噺家仲間では『新人』とか『インテリ』とかいわれていた」(「はしば会 林家彦六」)という書き出しだけで、すでに当時名人とうたわれていた正蔵の人気を揶揄してみせる。あるいは「戦後知りあいになった或る医者は、熱心な可楽のファンで、可楽こそ名人だ、あれだけの味のある芸人は出てこない、とまで言った」(「長いコート 三笑亭可楽」)。可楽なんて大したことのない芸人だ、とは決して書かないが、言葉の端々にそれをうかがわせるこの巧みさ。文楽でさえ「しんから文楽は気の小さい人であった」と書き、恐妻家文楽の浮気を暴露気味に、それでいてしれっと書いてみせる。いや、だからかえって面白いのだ。宇野にいわせれば「奇人」の正岡容が、宇野よりはるかに情のある筆致で噺家の人となりを描き出すのは味わいがあるのだが、読んでいて退屈にならないでもない。しかし常識人をもって鳴らした宇野がじつはここまで意地悪く人を観察し、何十年もたってからそのことを書ける、というのはやはり尋常ならざるものを感じる。