新派の社会劇

新派の社会劇については、以下の記述を参照のこと。

小山内の考えを簡単にいえば、かつて身を置き、今本郷座時代を現出している新派の動向をも見定めて—このころから新派の「社会劇」をめぐる論議が一方で盛んになりつつあり、たとえば高田実、喜多村緑郎、藤澤浅二郎、水野好美たちによって、イプセンの『ブラン』や『社会の敵』の影響を受けた佐野天聲の『大農』が、明治四十年九月の本郷座で上演され、新派の現代劇としての新展開がまだまだ可能だと思われていた—、歌舞伎・新派・文芸協会等諸々の既成勢力が、決して手をつけないだろうような作品を取り上げるべきだというもので、そのために、新派が手を出しかねないイプセンの社会劇を回避すると、晩年の象徴主義的な『ボルクマン』を選んだのだと思われる。『日本現代演劇史 明治・大正篇』九五頁

天声は明治四十年三月末日締切の『都新聞』の懸賞戯曲に「大農」をもって応募し、二等に当選、賞金五百円を獲得した。審査員は上田万年、上田敏、三木竹二、島村抱月、森鷗外。同年六月、「大農」は金尾文淵堂から上梓。同九月、本郷座において高田実、喜多村緑郎、藤澤浅二郎らの新派大一座によって脚光を浴びた。日露戦争で捕虜になり、大陸で大農システムを研究して帰国した非戦論者でクリスチャンの加納努という青年が、郷里において大農法を目指して意志的な奮闘をつづける話である。その原型はイプセンの「ブランド」及び「人民の敵」であると批評家たちは批評している。舞台の評判は余り芳しくなかった。『日本社会主義演劇史 明治大正篇』九一頁。

松本克平は佐野の戯曲『銅山王』を紹介する中で彼の「大農」に触れているのだが、この『銅山王』の筋書きはすごい。「『銅山王』は、明らかに明治十二傑の一人と云われた古川市兵衛の一家をモデルにした大胆な脚本である。人物の性格、心理の描写は未だ古い手法を脱しきれず生硬未熟で、商業演劇の舞台には全く不向きな脚本に終わっている」というが、いやいや、同時代の欧米のメロドラマもかくのごとしというきわめて「大胆」なもので、むしろ大舞台でなければできないだろう。

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「たが屋」のサゲ

NHK落語名人選15三代目桂三木助には「たがや」が収録されているが、解説の飯島友治は以下のように書いている。

昔は、侍にきられた【傍点開始】たが【傍点終了】屋の首が宙に飛んで、涙声に「たがやァ」とサゲていた。それが安政の大地震によって、それまでその日暮らしの職人たちに、復興のための仕事が降ってわき、手間賃が上がって金回りがよくなった職人たちは、仕事を終えると遊郭や寄席に押し寄せた。彼らを迎えて、そこは、頭の回転が人一倍速い噺家、職人たちの溜飲が下がる話に作り変えたというわけだ。

一方、小谷野敦はそのブログで以下のように書いている。

CDボックス「談志百席」で「たが屋」を聴いた。最後は、侍にたが屋が首を斬られて中天高く舞い上がる。これが本来の型である。明治になって、侍が斬られるように変わった。確かにそうである。供侍二人をやっつけるのはまぐれとして、一介のたが屋がその上主人の侍まで斬るなどありえない。落語はそういう「勧善懲悪」の絵空事をやらないはずの世界だが、明治「たが屋」だけはそれをやってきた。しかしこの型なら、その後たが屋は重罪に問われる。いずれにせよ打ち首であろう。そして、たが屋の首が飛ぶからこそ「たが屋ー」というサゲがあるわけだ。さすが談志師匠である。

どちらが正しいのか、今の私には判断できる材料はないが、落語が「勧善懲悪」の絵空事をやらない、というのは首肯しかねる。勧善懲悪という言葉をどう捉えるかにもよるが、たとえば「一文惜しみ」などは勧善懲悪といえるのではないだろうか。

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志ん生の落語を好きではない理由

志ん生の落語のよさというのがよくわからない。あまりに天才、天才と言われるものだからそれに対する無意識の反発もあるのだろうが、結局高座を聞いたことがなければそのよさがわからないのかな、と思っていた。志ん生の全集はライブ録音のせいもあって、客へのサービスでくだらないくすぐりを入れるのも(先代の!)正蔵、三代目三木助を崇拝する古典主義者の私には受けつけないものだった。

正蔵の「鰍沢」と志ん生の「鰍沢」を先日聞き比べて、志ん生が好きではない理由がようやくわかった。一言でいえば、くどいのだ。正蔵のほうは芝居噺だから余計に簡潔にしているのかもしれないのだが、鉄砲で狙われてサゲの「あア、お材木で助かった」まで、志ん生は言葉を尽くして臨場感を出そうとする。その描写力はたいしたものなのだが、その分こちらは息を詰めて聞かなくてはいけないので、聞き終わるとどっと疲れる。寄席芸であるにもかかわらず、近代芸術の鑑賞と同じような忍耐力を客に要求する。その意味で、志ん生は天才でも、近代的天才なのだ。

そうはいっても、志ん生は磨き抜かれた話芸を客がただおとなしく聴いているのをよしとしない。かならず余計なくすぐりを入れて、客の顔色をうかがう。洗練と卑俗を共存させようとしたという点で、志ん生は数ある近代が生んだ天才のなかでも、モーツァルトにもっともよく似ている。グレン・グールドがピアノソナタ全集を録音するにあたって、中期以降のモーツァルトの堕落ぶり、客受けを狙って安易なフレージングを多用するところを痛罵したのは有名な話だが、志ん生も似たようなところがある。それにたいして、芸の道一筋、端正さを追求した正蔵はさしずめJ・S・バッハというところか。圓生や三木助もバッハ一族だ。

べつのいいかたをすれば、自分の芸にも、客のあしらいにも、どうせこんなものだと高を括っていたようなところが志ん生にはある。自分が天才だと正しく理解している天才はやっかいなものだ。自分の才能に酔いつつ、かつ、どこかでその才能を突き放して醒めた目で見ている。そういう自己陶酔と自己韜晦が混じりあうと、芸は一抹の苦みを醸し出す。つまり、天才であっても、生きるということは厄介なものなのだ。とはいえ、その苦みは純粋に楽しみたいと思って寄席にやってくる客にとっては邪魔なものでしかない。当代の談志はその傾向が顕著なのだが、生きている人間が出す苦みはそれほど気にならないのにたいし、録音された苦みはいわば苦みの結晶だ。コーヒーを飲んだ後のカップの底にわずかに溶け残った砂糖のように、それは甘いけれど苦い。そんなものを誰が飲みたいと思うだろうか。

志ん生の全集も、談志百席も、いまではなかなか高座で聞けない落語を聞けるという意味では貴重なのだが、落語を楽しみたいと思っているときに聞くものではない。あれらは落語の勉強のために聞くものだ。

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栗林元二郎『運命の別れ道』

吉岡道夫氏のサイト内の記事、北の創造者たち⑤には以下のようにある。

[栗林元二郎は道庁から]北海道の嘱託として移民招致係になって欲しいと頼まれる。大正13年のことであった。

 道庁嘱託の辞令を受けた元二郎は、突然「活動写真をつくる」と言い出して役人を慌てさせる。筋は東北からやってきた一農村青年が北海道で開拓に成功し、道庁の表彰を受けるというもの。なんのことはない元二郎そのものの伝記映画である。

 どのように予算を工面したかは不明だが、主演は曾我廼家五郎、役者一行40名を札幌の円山公園に作ったオープンセットに缶詰にし、制作費1800円也でPR映画を作ってしまった。

 この映画を担いで、元二郎は東北各県を興行して歩いた。映画が終ると北海道移住を説き、クライマックスには伊達一族の北海道開拓物語で盛り上げた。戊辰の役で、悲運を一身に背負った東北の雄藩「伊達家」の開拓成功譚は、東北人の涙を誘い、大地への夢をかきたてた。

道民活動文化振興課の西田氏が八紘学園栗林記念館の佐藤氏に問い合わせていただき、上記映画の題名が「運命の別れ道」ではないかということがわかった。またそれとは別に、北海道庁文書館(閲覧室011-204-5077)に昭和初期の拓殖関係の映写フィルムリールを120分のビデオテープ5本にしたものがあるのでそこに入っている可能性があることもわかった。

これらは当時の道庁拓殖部植民課が予算を拠出したものであり、現在は札幌テレビ放送局(STB)が著作権を持っているということも西田氏に教えていただいた。

佐藤氏には直接お電話をし、昭和四十年代の北海タイムス(もしかすると北海新聞)にこの映画について取材を受けたときの記事があるので探してあればファックスで送っていただける、ということになった。

また、吉岡氏にはメールをして、映像資料は北海道議会図書資料室や北海道立図書館にもあるかもしれない、という示唆をいただいた。北海道議会図書資料室には電話をして、地下に古い書籍が眠っているということをお聞きした。

北広島市立図書館本館(札幌からJRで16分)には佐藤さんが編さんされた『八紘学園七十周年史』(二〇〇二)があるので、まずこちらを手がかりにしたい。2月23日が図書整理日で休館なので、2月21日北海道入りした当日にあたってみよう。

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なぜ私は国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会員をやめたか

一万円の会費を払うのがバカらしいから。そうまでして紙媒体の『シアターアーツ』を発行しなくてはいけない理由が私には理解できないから。
演劇批評が「食っていけない」ものであることはわかる。演劇批評でまともな対価をもらえるのは(私の知る限り)新聞社と文藝春秋だけだ。『文學界』に毎回長文の劇評を書いている長谷部浩は、四百字一枚5000円以上もらっている。新聞社はもっと出しているだろう。
『悲劇喜劇』はまだ良心的なほうで、一枚2000円。『テアトロ』は書かせてもらったことがないので直接は知らぬが、大学などほかに職がある人間には、原稿料を払わないことすらあると聞く。専業で演劇評論家をやっている人間など数知れているから、ほとんど払っていないわけだ。ちなみに最近サブカル偏向で『クイックジャパン』と変わらなくなってきた『ユリイカ』は一枚1000円。
出版社がそれぞれの事情で原稿料を決めているのはわかるし、安くてもよいから、全国の大学図書館には納本される『悲劇喜劇』『テアトロ』『ユリイカ』に書きたい、という人がいることは理解できる(私もそうだったし)。
しかし毎年一万円という大金を払ってまで『シアターアーツ』に書きたい/書かなければいけないと思う理由はいったい何なのだろうか。AICT日本センターの台所事情は苦しく、その大半が『シアターアーツ』の印刷代になっている。しかしそうならばなぜウェブマガジンにしないのだ? 配本されない書店のほうが圧倒的に多い『シアターアーツ』よりも、ワンダーランドのようなウェブサイトにしたほうがよほど広範な読者層を獲得できると思うのだが?
聞くところによれば、AICT日本センター会員だと名乗ると招待券を出す劇団は結構多いそうだ(私はそういうことをしたことがない)。ひょっとするとそういう招待券の総額は一万円を上回るのかもしれない。しかし『シアターアーツ』に書いてもらえるかすらもわからない会員に招待券を出し続けることは無駄だと劇団の制作は思わないのだろうか? 演劇批評ではまだ自他ともにアルファブロガーと名乗れる存在はいないが(渡辺保は例外だが)、影響力のあるブログを書いている人間や、えんぺの常連に招待券を出したほうがよほど広告効果はあるはずだし、まともな劇団ならそうしているはずだ。
そんなわけで、私は演劇批評を書きたいという欲望がまれに訪れたときには、自分のブログか、えんぺに書くだけにした。そのほうが人に読んでもらえるから。同人誌とかわらぬ懐事情であるくせに、プロの参加する同人誌が持っている表現したいという初期衝動で満ちあふれているわけでもない『シアターアーツ』に書くのは時間の無駄だ。

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曾我廼家庭劇

曾我廼家家庭劇は二代目曾我廼家五郎の死後、曾我廼家五郎劇団を改称したもので、引き続き三越劇場で上演した。

 これには三越劇場の好意、英断もさることながら、劇団側の総務笹川幹氏の粘りも、無視出来ないと思う。笹川氏といっても、この人は舞台人ではないから、一般には知られていないのも無理は無いが、東京方の五郎にとって、或いは遠からぬ将来に具体化するかも知れない東西五郎の合同の場合にとって、無くてはならぬ重要な人といってもいいようである。

 根は貿易商ということだが、第一次世界大戦勃発当時というから大正三年、いまから三十七、八年も前に、当時外遊中の初代五郎と英国ロンドンで知り合っていわゆる肝胆相照らす間柄となり、以来五郎一座の後援会長を飽きずに勤めて来たというから因縁まことに浅からず、こんな関係で、二代目五郎一座の総務となったのも宜なるかなというところだろうか、この縁の下の力持ちのためにも、新発足曾我廼家庭劇の面々は結束を固くしてやって行って貰いたいものである。

『曾我廼家劇雑感』左本政治(報知新聞文化部)

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戸板康二「折口先生の芝居の歌」『短歌増刊』

曽我廼家のしばゐを見たり。老いづける兄をしひたぐるを見て おもふなり
 このすぐ次に「年たけてたゞ二人のみ、残りはらからゆゑに、思はざらめや」と続く。大阪という連作十首の、おわりから二首目の歌である。
 郷里の家に帰って、とかく親族といさかうことがあるのを歎いた何首かの歌にまじって、曽我廼家の喜劇の歌が、きわめて適切に位置している。
 しらべれば、その出し物の題名をわかるかも知れないが、舞台で、五郎の老いたる兄が、弟やその身内から冷遇される場面を見たが、先生にとって、実感のつよすぎる思いだったのであろう。
 多分、最後に、みんなが後悔して、「兄さん、すまなんだなァ」というようなことで、笑い合う。一堺漁人という筆名で五郎が自分で脚本を書き、自分で演じたのだが、いつも一種の教訓めいた落ちがついているのが、臭みだった。
 しかし、郷土の役者という意外に、五郎のあのいかにも肉体自身が「大阪」の特色をさらけ出して見せる芸風を、先生は歌舞伎の延若(先代)の芸風とともに、こよなく愛した。
 「延若と五郎が共演できないものかね」と、先生は何度も何度も、未練とでも呼びたい口ぶりで、つぶやいて居られた。
戸板康二「折口先生の芝居の歌」『短歌増刊』四八年十一月
戸板はこの作品がなんであるかを記していないが、おそらく『石津の里』であろう。

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滝沢修の『忠義』

兵役に就いたあとの滝沢修の、築地小劇場復帰第一作が一九二九年の『忠義』であった。神山さんのご教示によれば、「築地小劇場で再演したときは、実につまらなかった、さすがに左団次はちがうものだ」という感想があったという。初演も不評であったわけで、再演はさらにそれに輪をかけてひどいできだったということか。
『築地小劇場』第六巻第一号(一九二九年)は「『忠義』の作者メイスフィールド」が特集されている。

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伊東清『八代目林家正蔵正本芝居噺考』

伊東清『八代目林家正蔵正本芝居噺考』(一九九三年、三一書房)は定価12000円、日本の古本屋でも10000円とちょっと手が出ない価格だ。国会図書館に行って見るのがいいかな。
追記:と書いていたら、畏友・児玉竜一氏がわざわざメールをくれて、日本特価書籍で新刊を3600円で販売していることを教えてくれた。早速その日(初秋だというのに凍てつく雨の中)出かけて入手。ビデオも早速見る。正蔵の端正な語りが突然変貌するところがすごいね。やはり百聞は一見にしかずだ。それにしても神田の古本屋めぐりは定期的にやらないといかんなあ、とネットに頼っている現状を少し反省。掘り出し物があることはめったにないのだけど、こんなこともたまにあるからなあ。

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『忠義』その2

Trans. by Frederick V. Dickins, Chiushingura, or, The Loyal League, a Japanese Romance

東大総合図書館にある。これは横浜の英字新聞 The Far East に1874-75年に連載された作品の単行本化、『仮名手本忠臣蔵』初の英訳である。

『新演藝』の写真につけられた『忠義』のキャプションより。

クラノ

これだ、おれ達を気違ひにしたのは、この女だ。こいつの顔を見て呉れ、こいつがおれを気違ひにしてしまつたのだ。こいつの目がしてしまつたのだ。若い時はよくないものだ。女が一つにつこりすると、世間の咽喉にでも飛びついて行く。そして自分の身などは投げ出してしまふ、しかも女の要求するものは虚栄だけなのだ。若し鏡に口があれが男も女も決して迷はされはしないのだがな。…………

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