小山内薫『忠義』

John Masefield, The Faithful : A Tragedy in Three Acts (London : W. Heinemann, 1915)は東大総合図書館にある。ただし、早稲田演劇博物館にある『忠義』は東京:人間社出版部、一九二一年五月となっており、「五月明治座上演『ABC忠臣藏』」という但し書きがある。国会図書館が所蔵している『戯曲 忠義』の出版社および年月は東京:東亜堂、一九二一年六月となっており、ページ数も前者が八一頁であるのに対して二三五頁になっている。比較対照する必要あり。
なお、国会図書館所蔵本はマイクロフィッシュ化されており、原本は 広島市立図書館が特別コレクション:広島文学資料として所蔵している。同じく、広島市立図書館に原本が存在する『小山内薫 翻訳戯曲集第一篇 忠義』(東京:玄文社、一九二三年五月)も国会図書館はマイクロフィッシュ化されており、こちらは一八四頁である。
小山内は一九二八年に没しているから丸ごとコピーしても著作権が問題になることはない。
また、『築地小劇場』一九二九年一月号の復刻版(東京:不二出版、一九八六年)に大江良太郎「『忠義』を想ふ」が掲載されているそうなので、これも国会図書館でコピーをとってきてしまう。『マツ』の上演は一九二九年九月(第一劇場・浪花座)だから、もしかすると何か関係があるかもしれない。

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毛皮族『脳みそぐちゃぐちゃ人間』

冒頭で導入される『娘道成寺』のイメジャリが途中で無惨に消え失せてしまい、前回と同様ラブ&ピースのメッセージに回帰してしまうのは明らかに脚本上の欠陥。とはいえ、宝塚ではなくて歌舞伎のパロディをやるというのは新しい試みで、しかもたんなる本歌取りになってない点では花組芝居の向こうを張れるかも、と途中までわくわくしたのは事実。
レビュー部分はとりあえず振り付けました、歌いました、踊りました、というのが目立つ。疲れてるんだろうな、パワーが足りないな、と思うのと同時に、もうレビューそのものには(限られている)リソースを割かない、というのは賢明な選択ではないかとも思う。70年代ディスコサウンドとファッション、そして反戦のメッセージはラブ&ピース一色になって展開する後半部を見事に縁取りしており、前回よりもうまく作り込めていたことも本当。
時折挟まれるニューヨークのイメージで、江本純子がニューヨークに行っていたことを思い出す。ニューヨークの演劇シーンに日本の演劇人が「啓発」されるとろくなことにはならいが、たくさんの大型犬を連れて散歩とか、英語の台詞ぐらいはいいのではないか。
横町慶子の使いかたはほぼ失敗。とくに最後の場面で、彼女が死体の肉を口に咥えて去る、というのは明らかに異質なイメージで、散逸していたイメージが収斂していくのを邪魔するだけ。ロマンチカは80年代を再現し、毛皮族は70年代を再現する、ちゃんと棲み分けができているんだからわざわざその境界を越えることはないのに。
町田マリー演ずるアッコちゃんが「ビバスローライフ」という刺青の文句を入れるのは、江本純子の本音だろう。今回はこれまで毛皮族の作品を特徴づけていたドライブ感を全く感じられず、それは手抜きとか疲労困憊という印象を与えることにも一役買っているのだが、意図的に物語の展開を遅くしているのもわかる。まあ、ラブ&ピースを気取るなら Sit back and Relax だからね。
昨日たまたまとある研究会で久しぶりにロバート・アルトマンの『マッシュ』(の一部)を見たので、そのせいもあるのだが、作品全体に伏流するこの Sit back and Relax というメタメッセージを受け取ると、アルトマン的な、狂騒と無秩序が妙にゆっくりした時間の流れで展開する世界が舞台で再現されているような錯覚も受ける。江本純子ははたしてアルトマンを意識していたのだろうか。

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「喜劇」と冠した最初の戯曲

白川宣力「明治期のモリエール劇」(『学鐙』1972年7月号)には以下のような記述がある。

なお国立国会図書館編「明治・大正・昭和翻訳文学目録」によると、このあと明治三十三年一月雑誌“この花”に渡辺霞亭の「花風病」というモリエール作品が発表されたということであるが、この稿を書くにあたって再度その所在を索ねたが複々不明のままで時間切れになってしまったのは残念である。(三六頁)

この記述をもとに、『明治・大正・昭和翻訳文学目録』にあたってみると、「喜劇・花風病」とたしかに角書がある。しかし、『この花』という雑誌の所在がどうしてもつかめない。

一方、『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成 人文科学編(第46巻)文学四』(一九九七年、皓星社)に掲載されている『現代文学全集別巻 現代日本文学大年表』(一九三一年、改造社)には、「花風病」以前に以下の三作が喜劇を題名に冠しているとされている。

明治三十年(一八九七)八月 山田其廼園「喜劇 瓢簞鯰」『喜樂』『現代日本文学大年表』九九頁(『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成 人文科学編(第46巻)文学四』一〇九頁)

『喜楽』は国会図書館で入手済み。目次には「喜劇 瓢簞鯰」とあるが、本文では「瓢簞鯰」とだけある。原作がドイツのものらしいが、翻案されて登場人物や舞台などはすべて日本になっている。周旋屋をめぐってのドタバタ喜劇。

明治三十一年(一八九八年)二月 幸堂得知「喜劇 人か影か」『太陽』(4卷2號?)『現代日本文学大年表』一〇四頁(『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成 人文科学編(第46巻)文学四』一一四頁)

『太陽』は成蹊大学図書館がCD-ROMを持っていたのでコピーする。本文には「日本喜劇 人か影か」。こちらは隠れ蓑を神様から貸してもらった男の物語で、日本の昔話に題材をとったものだろう。

明治三十一年(一八九八年)八月 梶田薄氷「喜劇 二階の客」『文藝倶楽部』(4卷8編?)『現代日本文学大年表』一〇七頁(『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成 人文科学編(第46巻)文学四』一一七頁)

本文には「喜劇」の文字も冠せられておらず、内容も樋口一葉ばりの不誠実な夫をもった女性が苦労する話で、喜劇などではない。国会図書館で目次のコピーをとり、再度確認する必要あり。

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イリーナ・ブルック演出『ガラスの動物園』

ガラスの動物園、学生と見に行ってきましたがひどいものでした。イリーナ・ブルックはお父さんの100分の1の才能もないですね。たしかに自分の知らない言葉で演出したのだから割り引いて考えなければいけないですが、そもそも中年のトムという設定も説得力を持っていなかった。あの作品の奇妙な味わいは、年齢の割に老成した青年のトムが自分の過去を振り返る、という設定があるからでしょう。それは当時のウィリアムズが、まだ若いのにもかかわらず、自分はすでに十分年を取っている、と思っていたことの反映で、そのことも含めて、この作品がウィリアムズの「若書き」である証拠なのに、それを無視して懐古にふけるにふさわしい中年男にしてしまうというのは、たんに戯曲を読めていないだけじゃないのか、と思いました。また、幕切れでトムの語りとともに舞台後方の壁にカメラでとらえられた中嶋朋子演じるローラの顔のクローズアップが映し出されるという、センスのかけらもないことをやってくれたりしていたので、酷評を受けてもしかたがないかもしれません。

それに何よりも、ご指摘の通り俳優達が自分たちのクセだけで演じているのがたまらなく退屈でした。

木内みどりは、かつて転位21という唐十郎の流れをくむアングラ劇団に出演し、その内なる狂気を存分に示すことができていたのに、年を取ったからか、わずかに一シーンでその片鱗を見せたぐらいで、アマンダの狂気を表現するにはいたっていませんでした。

木場勝巳も「俺ってどう?うまいだろ?」的なナルシスト演技が相変わらず鼻につき、たしかに十年一日全く進歩もないけれどそれなりに完成されている木場節で幕切れのトムの語りをやられると感動的でしたが、ほとんどの場面では自分の演技を一切崩さず、揺れ動くトムの心情を表面的になぞることすらしていませんでした。

いちばんひどいのは中嶋朋子で、歌舞伎ふうにいえば「ニン」がありそうだったから選ばれたのでしょうが、ローラのひたすら内向していく繊細さを外に向けて「表現」しようとするあまり、やりすぎになっていることに気づかず、結果として「やたらにコミュニケーション能力の高い引きこもり」という形容矛盾の存在になっていました。ようするに『北の国から』の蛍の役をなぞったにすぎないマンネリ演技、この人は結局何を演じさせても金太郎飴で、それでも一定の「表現力」はあるものだからうまい女優だということに世間の評価は定まり、いずれは大竹しのぶのような存在になっていくのだな、という予感を感じさせるのに十分でした。

そんなわけで、ご覧になる必要のないものだったと思います。まあ私は、時としてつまらないものを見て、この戯曲はこう演出されなければならない!という自分の中の妄想を研ぎ澄ますことも必要だと思うので、いってよかったと思います。

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(最後の?)大阪出張

9月12日(火)-15日(金)
乃村工藝社で第五回内国博覧会の史料を調べる
財団法人阪急学園池田文庫で曾我廼家生原稿を調べる
関西大学図書館で一九三八―一九四三年にかけて大阪・現代文化社から出版されていた雑誌『現代演劇』を調べる

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松山二郎『喜劇と喜歌劇アンポンタン』

御園座演劇図書館(名古屋市中区栄1-6-14御園座地下2階)のみが所蔵している松山二郎『喜劇と喜歌劇アンポンタン』(実業之日本社、大正十二年)は児童書だった。登場人物はすべて子供。松山二郎は児童向けの笑い話をたくさん出版しているほか、カメラの入門書なども書いており、どうやら今でいうライターのような存在であったらしい。

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掬水庵渓風の本名

 …ここにその頃の大阪の庶民生活の雰囲気を伝える格好な資料がある。

 それは、当時大阪の財界に蟠居された肥田弥兵衛氏(虎屋銀行の創立者)の三男の肥田弥一郎氏の「掬水庵日誌」と題した日記である。

 弥一郎氏は読書力旺盛、文学の趣味深く、自ら掬水庵渓風と号し、その書庫を楓文庫と名付けて珍書古書を収集されたが、大正13年1月に個人雑誌「あのな」(ANONA)を創刊された。この「あのな」は以後昭和4年12月までの六年間休みなしに通巻72号まで発行(他に増刊、臨時号など数冊ある)されたが、その中に若き日の日記を「掬水庵日誌抄録」と題して連載されたのであった。『日本映画史の研究:活動写真渡来前後の事情』九七頁

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』08

チケット前売制度を日本ではじめたのは松竹だというのはその通りだと思うが、それが大谷自らの発案によるものだというのが側近佐藤による以下の発言。これは裏をとる必要がある。

佐藤徳三郎「九十年間前向きだった人」

私が京都市御幸町三条上ルの大谷社長邸に小僧として上がったのは、たしか明治四十三年の、私が十八歳のときでした。

……

 大谷社長の独創になるものに、劇場の前売り制度があります。今でこそプレイガイドが各地にありますが、当時は【ルビ開始(でかた)】出方【ルビ終了】制度といって、各劇場には「出方」という組織があり、ある一定の客席を仕切っていたのです。出方たちは【ルビ開始(かしら)】頭【ルビ終了】、副頭の統卒のもとに、劇場内外の掃除、看板のかけかえを自発的に奉仕し、そのかわりお顧客さんを案内して、席を決めたり、弁当の世話などしてチップをもらう商売なのです。これも長い伝統というか慣習で、劇場側も黙認し、利用していたわけです。

 大谷社長は、この改革に乗りし【ママ】、当時私が支配人をしていた明治座で、大正十一年五月に初めて前売りを始めました。当初はお客さんの方もなれないせいか出方を利用する人が多く、あまり効果はありませんでしたが、だんだんこの制度が実ってきて、やげて最初に銀座のプレイガイドが設立され、各劇場とも前売りを開始するようになったのです。

 それ以前にも「観劇商品券」という、松竹系の劇場なら東京でも大阪でも通用するものがあるにはありましたが、劇場単位の、現行の前売り制度は、社長が考えられたものです。

(歌舞伎座事業取締役)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一一三、一一五頁)

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』07

曽我廼家十吾の以下の発言は楽天軍が楽天会に変わった経緯を説明していて興味深い。これが曾我廼家五郎研究との唯一に近い接点だな。

曽我廼家十吾「大谷さんが巡査に頼んで」

……

 大阪・二輪加の人気が落ちはじめたのを見て、演劇としての喜劇に目をつけ、これを育てたのも大谷さんです。

 私は、明治三十二年に九歳で二輪加の大門亭大蝶に弟子入りし、その後、伊藤博文が殺された明治四十年に、大谷さんが面倒をみられた「楽天軍」という喜劇団につれていかれました。この劇団は、今の京都ピカデリー劇場のところにあった戎座を根城にしていた喜劇団ですが、座長格のの松平良太郎と深沢恒造とが喧嘩して一旦解散したのを、大谷さんが「樂天会」として改造したものですが、私はやはりここで働かせていただいていました。

 また、嵐儀三郎を中心とした「瓢々会」というのを大谷さんがつくられたときも、私は大谷さんにいわれるままに参加しました。だから、日露戦争前後からお亡くなりになるまで、実に六十数年にわたってお世話になったことになります。

……

(俳優)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一四二頁)

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』06

以下の渋沢秀雄の発言と、先ほどの肥後博の発言をあわせて考えると、神山さんいうところの「松竹のダブルスタンダード」が、結局は大谷竹次郎の性格の二面性、筋を通すところと子供っぽく非合理的なところの二面性に起因するのではないかと思えてくる。

渋沢秀雄「劇団交渉」

 次の日記は私が東宝株式会社の取締役会長時代に書いたものである。そのころ花柳章太郎、大矢市次郎、柳永二郎、伊志井寛の四氏が「新生新派」という独立劇団を結成し、それを新聞が派手に報道した。いくら松竹と縁の深い俳優にしても、独立劇団を結成した以上、東宝系の劇場へ出演するのは自由だという理由で、このときすでに有樂座への出演契約ができていたのだったと思う。

 日記には最初日活問題に関する意見交換が書いてあるが省略する。昭和十五年の話だ。読みやすくするため、大谷さんの言葉には「大」私のそれには「渋」とつけ加えておく。

 渋 「ついでに新生新派のことでは種々ご高配をいただきましたから、そのご挨拶も申し上げます。ありがとうございました」

 大 「お礼だけじゃ厭、頼んでくれなくては」

 渋 「独立劇団と契約するのは自由。ただその俳優があなたのほうに縁故が深いから、礼儀として挨拶するのです」

 大 「あなたのほうは頼むのはいや。しかし私は頼まれなくてはいや。役者は自分一人で偉くなったと思ってる。私は私が偉くしたと思ってる。頼まれないでも、勝手に出れば仕方ないが……」

 渋 「独立劇団じゃないんですか?」

 大 「まあ独立劇団のつもりでいるのだ」

 渋 「儀礼的なご挨拶を申せばいいという訳」

 大 「いや、私は役者に、子供に物を教えるようにハッキリいった。お礼じゃ厭。頼まれなくては」

 渋 「そうこだわらずに、どうです」

 大 「あなたが一言頼むといえば、今すぐ電話で許可する」(ここで大谷さんは目の前の卓上電話へ、右手を伸ばして見せた)

 渋 「いや、お頼みする筋はありません。新しい独立劇団なら、何も松竹さんへ話を通す必要ないじゃありませんか。ただその劇団を結成する俳優が松竹の恩顧を受けた連中だし、今後もお世話になる一団だから、顔をよくするため、ご挨拶に出たのです。お頼みするいわれはないと思います。もしあなたのほうの個々の役者との話なら、あなたへおことわりしず【ママ】に話をきめは致しません。それでは礼儀にはずれますから」

 大 「それはいいことを言って下さった。その通りです」

 渋 「独立劇団として世間に発表されたものを、一々お頼みしてあなたの許可を受ける筋はないと思います」

 大 「とにかく、頼まれない限り私はいや」

 渋 「では、こまかい引き合いを知りませんから、新生新派の人に聞いた上で、お頼みするのでしたら、また改めてうかがいます」

 東宝側は新生新派と話ができていたから、私の鼻息も荒かった。それにしても、演劇界の巨人大谷竹次郎の意地がよく現れている。そして私もよく、こんなこまかい会話まで書きとめて置いたものである。

 なんでも昭和十九年ごろには戦局が緊迫してきた結果、大谷さんも私もよく情報局へ呼ばれて、次々と演劇に関する規制を受けた。そしてとうとう非常措置令とかいう法律で、大劇場は閉鎖されてしまった。

 たしかそのころの一夜、二人が情報局を出たのは可なり遅かった。また何か演劇活動を縛るような命令――一応業者の自由意志のように見える体裁を整えた――指令が出たのだったろう。私は大谷さんの自動車で、共に警視庁前を霞ヶ関方向へ走っていた。すると突然、大谷さんが、いくらか自嘲的な響きのある笑い声でこういわれた。

 「渋沢さん。今夜私のうちへ泊っていらっしゃい。ひとばんゆっくり話しましょうや。そして私の愚痴も聞いてくださいよ」

 私の意は大いに動いた。しかし空襲のよくある戦時下だったので、遠慮してわが家に帰った。今となっては、あのときなぜ、大谷さんの偉大な愚痴を聞いておかなかったのだろうと、と悔やまれてならない。

(随筆家)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一二八―一三一頁)

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