池田弥三郎による小林一三との比較。2005年度日本演劇学会全国大会で寺田詩麻さんが「明治30年代後半の松竹合名会社−その経営の性質」という発表をされたときに質問にたった神山彰さんが「松竹は何でもダブルスタンダードだったんだ」という発言をしていたことを思い出す。神山さんの発言の含蓄の深さに改めて感服。
池田弥三郎「大谷さんについて」
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だいぶ前のこと、松竹と東宝とについて、一、二の本がでたときに、「演劇界」の利倉幸一さんにすすめられて、書評の枠を拡げて、「大谷竹次郎と小林一三」という文章を書くことを約束した。直接、対象にする本を数冊、利倉さんから送っていただいたりして、かなり、はりきって準備にかかったのだが、到頭それができ上らなかった。期日に間に合わない、などというのではなく、執筆以前に、どうにもプランがたたず、あやまって、おりてしまった。
それは、小林さんの方は、わり合いに、かっきりとした「人間像」が、心の中に画き出されるのだが、その像と対立するはずの大谷さんが、どうしてもうまくまとまってこないのである。参考資料にしても、決して足りなくはないのだが、どうしても、つかめないのである。ぼばくとしている、といったらいいか、一つの解釈をくだしてみても、すぐ、真反対な反論が心の中に起って、その解釈を足下から、つき崩してしまう。そして、大谷さんだけがけろりとしてそこにいる、といったような具合だった。
おつき合いという点からは、全く条件が同じで、つまり、私との距離はお二人ともに、同じ処におられるわけなのだから、その点、触れ合いということでは、ほとんど全く白紙であって、知り方に厚薄の相違はないのだが、それなのに、どうにも大谷さんの方は手におえないのであった。
今になって考えてみると、そこに、このお二人の相違があったのだと思う。小林さんの方は、人がらも、その仕ごと――もちろん、演劇関係だけだが――も、近代的で合理的で、理屈が通っていて、わかり易い。われわれのような、若輩にも、よくのみこめる理くつであり、その理くつが先に立っている。ところが大谷さんとなると、合理的なようで不合理で、不合理なようで合理的で、要するに、われわれの持ち合わせている理くつでは、割り切れない。眠っているのかと思うと、ランランと目をひらいており、では、見つめられているのかと思うと、一里も先に焦点が合っている見つめ方であったりするようなものであった。感覚的な処理かと思うと整然と理屈が通っていたり、冷静な判断かと思うと多分に気分的である、とでもいうような方で、何とも、わたしなどの手におえなかった。
それから十年も経つのだが、いまだに、大谷さんに対するわたしの感じは変らない。
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(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一四―一五頁)
『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』05
で、やはり白眉といえるのが肥後博の以下の発言。元側近ともあろう人が「外に向かってはきわめてよい人で通し、内づらのわるさはきわめてひどく、仏のおもてをかぶっている鬼のような性格」「やっと情報局参与という職名をもらうと、大いに気をよくして早速礼服を着て胸を張ってみせる」などということを書いているというのはすごい。この人のことをもっと知りたい。小津が松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した『宗方姉妹』の製作者が同じ名前なのだが、同一人物なのかな。そうするとなにか松竹と因縁があったのかもしれない。
肥後博「名誉と野望」
…このような口惜しさから大谷さんは自分の血統を調べはじめて、たぐり出したのが、実は父なる人が薩摩の日置という土地の市来、森田という軽い武家の出につながるということで、ここで改めて松竹の白井・大谷は、れっきとした鹿児島県人士族の出であるということになり、大正十一年三月に城山霊園に市来・森田両家累代の墓を改装し、故郷に錦を飾るというふれこみで松竹大歌舞伎の大興行を打って鹿児島人をあっと驚かせ、当時新聞人で小説家の渡辺霞亭氏に書かせて白井・大谷の身分を表明紹介する小冊子を刊行し、これによってそれを田村、山本両氏に向けての鬱憤を晴らしたものであった。
昭和にはいると、市村座はすでになくなり、帝劇も本来の機能を失って東京の劇界は完全に松竹独断の隆盛期を迎え、大谷という名前も人に知られるようになると、利欲と道連れに、社会的な地位、それにお上から授けられる勲位といったような名誉が無上に欲しくなっていた。同じ頃からそろそろ小林一三という人の東都芸能界への企画の胎動が芽ざして【ママ】来たことは、大谷さんにとってはこと穏やかではなかった。何といっても相手は今太閤と渾名される傑物、近代企業の運営にかけては定評のある手腕家だけに、この人との太刀打ちは生やさしいことではなく、しかもこの人と対等に物を言うには自分の地位はまことに隔りがあり、どうしてもコンプレックスを感ずる。ここでも自分の地位を作るために背伸びをしなければならない。相手は大臣級である、せめて自分も貴族院の議員ぐらいになって対抗したいという野望が本気になってきて、事実、このための動きかたもしてきた。かてて加えて世は戦争状態に入り、軍部が権力を握るようになると、芸能の世界も国家総力戦の一翼に寄与する必要に迫られてきて、次第にこの筋との接触が起こるようになると、大谷さんはつとめて官界にも顔を出し有力な宮家や、何々元帥といった顕職の人にも近づいて、戦勝のためには私利私欲を捨てて協力奉公すると赤誠心を披瀝して大いに讃辞をいただいたもので、遺憾ながらこれに報われる反応は現われなかったが、それでもやっと情報局参与という職名をもらうと、大いに気をよくして早速礼服を着て胸を張ってみせるなど(もっともこの写真を兄の松次郎さんに見られたときには、したたか叱られたと聞いている。序ながら申し添えておくが、松次郎という人は、関西というあまり政治的色彩の影響を受けない地域で、一にも二にも商売一点張りで通し、虚名などに【ルビ開始(あくせく)】にんべんに握手の握の右側+促【ルビ終了】する大谷さんの行動にはひどく苦々しい顔をする人であった)、一度怨霊にとりつかれたような大谷さんの名誉心欲は爾来ますます高まってゆくばかりであった。
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後日、大谷さんと私が、当時満州国で隠然たる実力者として知られた甘粕氏に大連の花街に招かれたとき、大谷さんは甘粕氏に贈られた師の肖像写真に見入っていたが、私にそれを示して胸の勲章を指しながら、ね、これいいね、ううんと唸るように感激しつつ甘粕氏の顔に目を移した、その時の仕草演出のうまさ(もっともこの人ほど対人会話などでの自己演出のうまかった人を私は他に知らない)、さすがに甘粕氏も口にこそ出さなかったが、なんとか推薦してもらってあげましょう、といったような表情を見て改めて深く頭を下げた、これなどもいかに大谷さんが勲章というものを欲しがっていたかを語るひとこまになろうか。さて私は思い出話の二つ三つを述べたが、長い間その側近にいて動いていた関係で、実はこの人の裏も表もある程度は識っているはずである。結局、この人は人並みはずれた自我心の強い人で、側近もだれも信用しない、あるいはひょっとしたら自分自身でさえも信ずることの出来なかった人ではなかったろうか。外に向かってはきわめてよい人で通し、内づらのわるさはきわめてひどく、仏のおもてをかぶっている鬼のような性格で好きな芝居道をひたむきに、飽くない利欲と名誉を追求して、恐ろしく長い生命のスタミナに物をいわせて、遂に念願かなって富はもちろん、文化勲章も勲一等の勲章も手中に収めたという、いわば怪物的人物であったと、私は思う。だからこそ、あれだけの巨きな事業が出来たのだともいえるのである。因みに、同じ兄弟でも兄の白井松次郎さんは、その死後、勲四等瑞宝章を贈られただけである。
(元松竹参与)
(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』二〇三頁)