『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』05

で、やはり白眉といえるのが肥後博の以下の発言。元側近ともあろう人が「外に向かってはきわめてよい人で通し、内づらのわるさはきわめてひどく、仏のおもてをかぶっている鬼のような性格」「やっと情報局参与という職名をもらうと、大いに気をよくして早速礼服を着て胸を張ってみせる」などということを書いているというのはすごい。この人のことをもっと知りたい。小津が松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した『宗方姉妹』の製作者が同じ名前なのだが、同一人物なのかな。そうするとなにか松竹と因縁があったのかもしれない。

肥後博「名誉と野望」

…このような口惜しさから大谷さんは自分の血統を調べはじめて、たぐり出したのが、実は父なる人が薩摩の日置という土地の市来、森田という軽い武家の出につながるということで、ここで改めて松竹の白井・大谷は、れっきとした鹿児島県人士族の出であるということになり、大正十一年三月に城山霊園に市来・森田両家累代の墓を改装し、故郷に錦を飾るというふれこみで松竹大歌舞伎の大興行を打って鹿児島人をあっと驚かせ、当時新聞人で小説家の渡辺霞亭氏に書かせて白井・大谷の身分を表明紹介する小冊子を刊行し、これによってそれを田村、山本両氏に向けての鬱憤を晴らしたものであった。

 昭和にはいると、市村座はすでになくなり、帝劇も本来の機能を失って東京の劇界は完全に松竹独断の隆盛期を迎え、大谷という名前も人に知られるようになると、利欲と道連れに、社会的な地位、それにお上から授けられる勲位といったような名誉が無上に欲しくなっていた。同じ頃からそろそろ小林一三という人の東都芸能界への企画の胎動が芽ざして【ママ】来たことは、大谷さんにとってはこと穏やかではなかった。何といっても相手は今太閤と渾名される傑物、近代企業の運営にかけては定評のある手腕家だけに、この人との太刀打ちは生やさしいことではなく、しかもこの人と対等に物を言うには自分の地位はまことに隔りがあり、どうしてもコンプレックスを感ずる。ここでも自分の地位を作るために背伸びをしなければならない。相手は大臣級である、せめて自分も貴族院の議員ぐらいになって対抗したいという野望が本気になってきて、事実、このための動きかたもしてきた。かてて加えて世は戦争状態に入り、軍部が権力を握るようになると、芸能の世界も国家総力戦の一翼に寄与する必要に迫られてきて、次第にこの筋との接触が起こるようになると、大谷さんはつとめて官界にも顔を出し有力な宮家や、何々元帥といった顕職の人にも近づいて、戦勝のためには私利私欲を捨てて協力奉公すると赤誠心を披瀝して大いに讃辞をいただいたもので、遺憾ながらこれに報われる反応は現われなかったが、それでもやっと情報局参与という職名をもらうと、大いに気をよくして早速礼服を着て胸を張ってみせるなど(もっともこの写真を兄の松次郎さんに見られたときには、したたか叱られたと聞いている。序ながら申し添えておくが、松次郎という人は、関西というあまり政治的色彩の影響を受けない地域で、一にも二にも商売一点張りで通し、虚名などに【ルビ開始(あくせく)】にんべんに握手の握の右側+促【ルビ終了】する大谷さんの行動にはひどく苦々しい顔をする人であった)、一度怨霊にとりつかれたような大谷さんの名誉心欲は爾来ますます高まってゆくばかりであった。

……

 後日、大谷さんと私が、当時満州国で隠然たる実力者として知られた甘粕氏に大連の花街に招かれたとき、大谷さんは甘粕氏に贈られた師の肖像写真に見入っていたが、私にそれを示して胸の勲章を指しながら、ね、これいいね、ううんと唸るように感激しつつ甘粕氏の顔に目を移した、その時の仕草演出のうまさ(もっともこの人ほど対人会話などでの自己演出のうまかった人を私は他に知らない)、さすがに甘粕氏も口にこそ出さなかったが、なんとか推薦してもらってあげましょう、といったような表情を見て改めて深く頭を下げた、これなどもいかに大谷さんが勲章というものを欲しがっていたかを語るひとこまになろうか。さて私は思い出話の二つ三つを述べたが、長い間その側近にいて動いていた関係で、実はこの人の裏も表もある程度は識っているはずである。結局、この人は人並みはずれた自我心の強い人で、側近もだれも信用しない、あるいはひょっとしたら自分自身でさえも信ずることの出来なかった人ではなかったろうか。外に向かってはきわめてよい人で通し、内づらのわるさはきわめてひどく、仏のおもてをかぶっている鬼のような性格で好きな芝居道をひたむきに、飽くない利欲と名誉を追求して、恐ろしく長い生命のスタミナに物をいわせて、遂に念願かなって富はもちろん、文化勲章も勲一等の勲章も手中に収めたという、いわば怪物的人物であったと、私は思う。だからこそ、あれだけの巨きな事業が出来たのだともいえるのである。因みに、同じ兄弟でも兄の白井松次郎さんは、その死後、勲四等瑞宝章を贈られただけである。

(元松竹参与)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』二〇三頁)

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』04

池田弥三郎による小林一三との比較。2005年度日本演劇学会全国大会で寺田詩麻さんが「明治30年代後半の松竹合名会社−その経営の性質」という発表をされたときに質問にたった神山彰さんが「松竹は何でもダブルスタンダードだったんだ」という発言をしていたことを思い出す。神山さんの発言の含蓄の深さに改めて感服。

池田弥三郎「大谷さんについて」

……

 だいぶ前のこと、松竹と東宝とについて、一、二の本がでたときに、「演劇界」の利倉幸一さんにすすめられて、書評の枠を拡げて、「大谷竹次郎と小林一三」という文章を書くことを約束した。直接、対象にする本を数冊、利倉さんから送っていただいたりして、かなり、はりきって準備にかかったのだが、到頭それができ上らなかった。期日に間に合わない、などというのではなく、執筆以前に、どうにもプランがたたず、あやまって、おりてしまった。

 それは、小林さんの方は、わり合いに、かっきりとした「人間像」が、心の中に画き出されるのだが、その像と対立するはずの大谷さんが、どうしてもうまくまとまってこないのである。参考資料にしても、決して足りなくはないのだが、どうしても、つかめないのである。ぼばくとしている、といったらいいか、一つの解釈をくだしてみても、すぐ、真反対な反論が心の中に起って、その解釈を足下から、つき崩してしまう。そして、大谷さんだけがけろりとしてそこにいる、といったような具合だった。

 おつき合いという点からは、全く条件が同じで、つまり、私との距離はお二人ともに、同じ処におられるわけなのだから、その点、触れ合いということでは、ほとんど全く白紙であって、知り方に厚薄の相違はないのだが、それなのに、どうにも大谷さんの方は手におえないのであった。

 今になって考えてみると、そこに、このお二人の相違があったのだと思う。小林さんの方は、人がらも、その仕ごと――もちろん、演劇関係だけだが――も、近代的で合理的で、理屈が通っていて、わかり易い。われわれのような、若輩にも、よくのみこめる理くつであり、その理くつが先に立っている。ところが大谷さんとなると、合理的なようで不合理で、不合理なようで合理的で、要するに、われわれの持ち合わせている理くつでは、割り切れない。眠っているのかと思うと、ランランと目をひらいており、では、見つめられているのかと思うと、一里も先に焦点が合っている見つめ方であったりするようなものであった。感覚的な処理かと思うと整然と理屈が通っていたり、冷静な判断かと思うと多分に気分的である、とでもいうような方で、何とも、わたしなどの手におえなかった。

 それから十年も経つのだが、いまだに、大谷さんに対するわたしの感じは変らない。

 ……

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』一四―一五頁)

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』03

真山青果との「共作」は有名な話だが、それを真山はどう思っていたのか、弟子筋からの証言。

巖谷槇一「偲ぶ草三つ四つ」

……大谷会長の偉さは、その会社経営にあったことは今更此処に喋々するまでもないが、、私が最も驚いたことは、上演台本に対する鑑識力の鋭敏さ、その俳優指導力の卓抜さ、……そして、会長自身が常に持っていられるところの、創作力、構想力は実に素晴しく、私の恩師真山先生といえども、筋につまってしまわれる時には、会長の智慧を貸【ママ】りられたものである。

 会長の方からは得意げに、

 『あの本はわしと真山の合作のようなものだ』と仰言るが、真山先生の方は弟子の私を掴まえて、

 『大谷の云った通りの筋ばかりを書いているから君たちの本は観衆を感激さすまでに至らんのだ。其処に哲学を入れるのだよ、大谷の立てた筋を自分の【ルビ開始(あたま)】頭脳【ルビ終了】の中に入れて、天井を充分眺めて、練りに練って、そしてかかれる本が永遠に輝くのだ。判かったかい、直ぐに筆を握ってはいかんぞ。……俺は大谷と首っ引き勝負をした上で、役者に汗をかかせ、見物のお土産になる、いい本をこしらえているんだ』

 昂然として師匠は、よく、こう云われた。

 ……(劇作家)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』二九―三〇頁)

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』02

最初はちょっと長いが、日活存続のために大谷がしたことについて。

堀久作「日活の恩人」

 昭和十六年八月、日米間の空気が険悪になってきたので、政府は、所謂映画新体制なるものを唱え出した。その狙いとするところは、映画製作機構を一つにまとめ、映画製作に対する強力なる統制を行わんとするもので、業者の反対と運動とによって、当初の一本建即ち一社案(全映画製作会社を一丸とする)が二社案(製作会社を二社とする)となり、つに製作機構を三社に、配給機構だけを一元的にまとめることに決定した。ここまで取り極められるには、内閣情報局と、内務省と、文部省の関係役人と、業者との間に数十日にわたる交渉が繰り返された結果であった。

 製作機構が三社に決定した場合、松竹、東宝、日活であろうとは、誰の考えも同じであった。ところが、松竹と東宝はそのままで日活は他の群小会社を抱き込んで一社となる、というのである。それも日活に合併されるならばまだしも、日活、新興、大都を対等に合併せしめて新たなる国策的映画会社を創立しようというのである。これは、普通の常識では考えられないことであった。合併による三社案なら、新興キネマは当然同系資本の松竹に合併されるべきであり、日活は大都を吸収し、東宝は他の群小会社を抱擁するのが一番合理的であった筈である。

 しかるに、話がここまで進んでいるのに、日活の重役連は、殆どこの問題に無関心で情報局の意のままに従っていた。当時の重役としてみれば、日活がどうなろうと、消えて無くなろうと、自分たちさえ、新設会社の職に留まることができれば、それでよかったのかもしれない。その証拠には、大蔵氏を除く、会長、社長、専務、その他の取締役、監査役の中で、一人として、重役に就任するに必要な、僅か二百株の資格株すら所有しておらず、各人の資格株は、松竹、東宝の所有している株式の中から借り受けているに過ぎないのであるから、会社に対する観念というものが全然違っている。だから情報局のいうがままに、日活の運命を任せたものであろう。

 この時、私は(当時私は、大株主の一員であった)、東宝の了解を得て、大谷氏と会見した。現在の重役に任せて置くと、日活は破滅するかもしれないから、この際、全重役の退陣を求め、新たなる重役によって、情報局との交渉を進めたい、それには松竹より大谷氏が出て、東宝より吉岡氏が出て、両者の共同責任により事態を収拾して貰いたい、と進言したところ、大谷氏も即座に承知してくれたので、その線に沿って、東宝、松竹の両社より現任重役の総退陣を要求することになった。これがために、紛糾を醸して、ついに重役の業務執行停止の仮処分にまで事件は発展したが、十月中旬に至って、漸く全重役は円満退社と云うことに話合いがついた。昭和十六年十月三十日の株式総会において松竹側より三名、東宝側より三名、中立より三名の新重役が選任され、会長に大谷武二郎氏、社長に吉岡重三郎氏が就任し、両社は共同代表となって社務を見ることとなった。私も、大株主の一人として平取締役として二度の勤めをすることとなった。

 そして、情報局の新体制問題に対する交渉は、吉岡新社長と加賀常務がもっぱらあたることとなったが、この交渉がまたなかなか日活のために有利に展開しそうもない。

 というのは、吉岡氏は東宝の前社長であって、日活本位に進んでも差し支えない立場にあったが、加賀氏の場合は非常に微妙なものがあった。加賀氏は日活の常務であると同時に、新興キネマの監査役でもあったから、両社に籍を有するものが、両社の合併に関して、善良なる管理者としてその任務を完全に遂行することは困難であろう。

 新興キネマは、白井、大谷兄弟の殆んど個人経営に等しい会社である。従って新興キネマの生死は、松竹に直接大きな影響を及ぼす問題である。加賀氏はその大谷氏の推挙で新興キネマの監査役となり、また日活の常務となったのである。

  加賀氏が非常に苦しい立場であることは同情できる。が、情報局の希望するままに、日活、新興、大都を対等に合併させようとしても、三者はそれぞれに資産内容が違うから無理である。

 第三者をして公平に合併案を立てさせたら、おそらく新興を二分の一に減資し、大都を十分の一に減資させた上で、日活に吸収せしめるのが順当であろう。しかるに対等合併せしめて、新たなる国策会社を創ろうとするところに、情報局の役人等に不純なものがあった、といわれても仕方がない。

 私は、この成り行きを見て目し得ず、大谷会長に、関係者の緊急会議の招集を求め、「日活側より情報局に出席する交渉委員を、加賀氏の代わりに、堀を出して貰いたい」と申し入れた。私の希望はかなって、昭和十六年十一月下旬に開かれた情報局の会議に、初めて出席することを得たが、会議は情報局他関係各省の役人と、日活、新興、大都から各二名の委員が出席していた。劈頭、吉岡社長は、今回、加賀氏に代わって、堀氏が日活の委員となった旨を述べ、紹介の挨拶をなしたところ、情報局の不破課長は、頭からこれを拒否する口吻を持って、まず堀を委員として認めるか否かを全員に諮ろうとした。すると内務省の中野委員は、公平な立場から、「堀氏を委員として認めても一向差支えないではないか」と強く主張されたので、私は委員として正式に発言を許されることになった。

 情報局の不破氏等が、私を交渉相手とすることを好まないのは、私が情報局の対等合併に真向から反対し続けて来たためである。私は「合併はあくまで、合併会社の資産によって比率合併とすべきである」と主張して譲らず、「政府が、これに総動員法を発動して強制的に合併を命令するというならば兎も角、日活は和議法に基づく和議会社であるから、全債権者の同意がなければ合併することはできない、情報局が任意合併を慫慂する段階にあっては絶対に応じられない」と頑張って、第一次会見を終わった。

 この理詰めな日活の態度に、情報局案は一時暗礁に乗り上げ、新興、大都の焦燥ぶりは、大変なものであった。

  そこで、日活を除いた以外の業者と、情報局との間に、私的交渉が盛んに行われたが、その交渉の概略は、心ある業者から日活に内報されるので、日活はこの情報に基いて将来の案を建てるのに、大いに益するところがあった。

 私は、遠大なる計画の下に、日活の製作部門を切り離して、これを現物出資とし、その代償として新会社の株式を受け取り、ひとまず新体制の枠内を切り抜けようと決心した。

 情報局の慫慂する合併案に対し、利益を得るのは、松竹であり、大谷、白井の両氏であった。何となれば、新興キネマの株式を全部持っておるからである。そこで、私は、大谷氏を松竹本社に訪ね、約二時間にわたって懇談し、日活は、製作部門を切り離して新会社に現物出資として提供し、日活の母体は、興行会社として再発足する、それ以外に良策はない、と私は強調したところ、大谷氏は、じっと考えておられて、「君の案に賛成しよう」と言われた。私は、飛び上がらんばかりに喜んだ。この大谷氏の賛成は、大谷氏個人としては、大変な犠牲であった。新興キネマが無傷で日活に合併されれば、大変な利益であったが、日活の製作部門だけとの合併では、利益は半減してしまう。それを承知で、私の案に賛成したことは、大谷氏は、筋を通す人であり、己の利を捨てて道についたこの大谷氏の態度は、実に立派であった。これこそ真の実業家であると、私は感服した。

 そこで私は、情報局と第二次会見の日である十二月八日、大いに闘う準備を調えたところ、昭和一六年十二月八日ついに宣戦の詔勅が下り、日本全国民は、厳粛な衝動の中に暗く閉されたのである。

 情報局の連中も、さすがに目前のこの大異変に直面し、今は理想だの、構想だのを述べている場合ではないので、私よりの提案をそのまま受け入れて、兎も角、合併新会社案をまとめることとなったのである。

 今日、日活が存在しているのは、実に大谷竹次郎氏の英断の賜であった。

(日活社長)

(『百人が語る巨人像 大谷竹次郎』二二六―二三一頁)

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『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』01

他大学図書館から借用した『大谷竹次郎 百人が語る巨人像 』があまりにも面白いので、いくつか抜き書きはしてみたものの、これは購入するしかないと思って日本の古本屋で検索。非売品だし、とんでもなく高い値段がついているのではないかと予想していたが、案に反して軒並み6-7000円の値段がついている。

そのなかでも文紀堂書店というところが3000円という破格の値段をつけていたので、これは買うしかないと急ぎ注文した。ところが三日も待たせたあげく、「現在在庫切れ」というふざけた返事をよこしやがる。本当に売り切れならしかたがないが—いや、日本の古本屋のデータベースに自分のところの在庫をきちんと反映させていないのも、本当は商売として不誠実だと思うが—これだけ待たせたあげくにこんな返事をよこすのは、自分のところが相場より安いことを知って売り惜しんだのではないかとすら思えてしまう。一ヶ月ぐらいたったら相場価格でもう一度出すんじゃないかと疑心暗鬼になったので、ここに書いておく。定期的に見てやるぞ。

で、興味深い抜き書きを以下のエントリーでいくつか。

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小山内薫「息子」

芸術劇場で染五郎主演の二〇〇五年十一月歌舞伎座公演の収録を見た。一九二四年(大正十三)の作品だというが、上演された時代を鑑みてもなんと古くさくつまらない作品であることか。単純な筋立てのメロドラマという点では、明治末期の曾我廼家五郎の人情劇にはるかに劣る。ハロルド・チャピンの「オオガスタその父を探す」を翻案し、典型的な世話物の構図を借りつつも、ある種の詩情を醸し出そうというのが小山内の魂胆だったのかもしれないが、結局それはごく限られた人々の感受性をあてにした、エリート主義的な発想でしかなかったことは、この作品が時代を超えて生き残らなかったという事実が証明している。

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柴田宵曲『煉瓦塔』「後篇」

岡本綺堂は喜劇「小栗栖の長兵衛」を書いた後、一旦得意になった長兵衛が忽ちに没落する後日劇を発表した。作者の意図から云へば、勿論両者相俟ってはじめて完成するわけであらうが、舞台に於いては成功せず、戯曲集などにも後日劇の方は省かれてゐる。(…以下略…)

柴田宵曲『煉瓦塔』七八頁「後篇」

『新訂増補 歌舞伎事典』の津上忠の記述によれば、『小栗栖の長兵衛』初演は大正九年(一九二〇)十一月東京・明治座で、長兵衛は二世市川猿之助が演じた。「全体的に喜劇仕立てで、権威とか強い者の前には、理非を忘れて屈してしまう人間の弱さに対する作者の風刺的なねらいがうかがえる。《父帰る》に次ぐ猿之助の出世作になったというのが初演時の評判。作者も俳優の工夫によって成功したとして、以後二十年ばかりは猿之助のほかに上演を許さなかった」『新訂増補 歌舞伎事典』八〇頁

悲劇喜劇あわせて一つのもの、という歌舞伎的な発想が綺堂にはあり、また柴田宵曲もそれを当然のこととして受け入れているが、一般の観客にとってすでにそのような発想はなじまず、一九二〇年の段階で喜劇を単体で楽しむことが普通になっていた、という解釈もできるかな。

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柴田宵曲『煉瓦塔』「小説の懸賞」

「小説の懸賞」

 モリエールを翻案した紅葉の「夏小袖」には、その作者を当てる懸賞があった。原稿浄写の役を勤めたのは泉鏡花で、作者の何人かを知ってゐる者は、紅葉自身と春陽堂主人と鏡花の外にない。鏡花は固く秘密を守ったため、紅葉の信用を篤くしたといふことである。(…以下略…)

柴田宵曲『煉瓦塔』三二頁

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長田秋涛が「喜劇」という言葉をはじめて使ったのはいつか

ロツパ 喜劇といふ名前は昔はなかつたでせうね。

五郎 曾我廼家が始めだよ。

ロツパ 喜劇が出来てから悲劇といふ言葉も出来たのかな?

五郎 文藝倶楽部に載つてゐた尾崎紅葉山人の「夏小袖」からとつて来た。僕の芝居に付ける名前がない壮士芝居でもない、仁輪加とも付けられない、お茶番でも具合が悪い……。

ロツパ いゝ訳語ですよ。コメデイーといふのは外に訳しようがない。

五郎 その後ある人から聞かされたんだが、長田秋濤【ママ】といふ人が、先に付けてゐたといふことだつた。

『洛味』第四号「明朗放談 曾我廼家五郎・古川緑波」一三一頁

小櫃万津男『日本新劇理念史 続明治中期篇』には、長田忠一口述「佛国喜劇」『早稲田文學』第六十一号(明治二十七年四月十日)が「フランス喜劇を対象に喜劇の理念を移入した文献」として紹介されている。これは尾崎『夏小袖』が明治二十五年九月に刊行されたあとのことである。なお、『夏小袖』は「喜劇」という角書はなかった。

また小櫃の註に紹介されている長田忠一(雅号は秋涛あるいは秋濤)の経歴をみると、明治二十六年にフランスから帰国したことになっている。一方、依田百川(学海)との共著である『當世二人女婿:脚本ハ佛國世界ハ日本 上・下』は東京:鳳文館より明治二十年に刊行されているようだ

いずれにせよ、明治十六(一八八三)年徳富蘇峰が「官民調和論」で喜劇という言葉を使用するほうが先であり、五郎の発言は誤りである。とはいえ、気になるので『埋もれた翻訳:近代文学の開拓者たち』や国会図書館所蔵の長田作品を調べてみる必要あり。

いちばん興味があるのはコッペー(コッツェブーのことか?)なる人物の作を翻訳したとされる『王冠』で、Webcatでも発見。明治三十八年明治座八月興行において、川上夫婦、高田、落合によって上演された長田秋涛翻案『王冠』は好評だったという

『怨』(明治三十九年、東京・隆文館)はスクリーブが粉本。

「文藝倶楽部に載っていた」も気になる。小櫃によれば、「なおこの脚本を収録している『現代日本戲曲全集』1(一九五五年六月十日、白水社刊)は、この発表を『讀賣新聞』の明治二十四年十二月の連載としており…そのような事実は誤りである」(『日本新劇理念史 続明治中期篇』五八一頁)であるが、同年同月の『文藝倶楽部』に載っていたのだろうか。いずれにせよ、曾我廼家五郎十郎一派の改良新喜劇旗上げにはまだ時間があり、この陳述はにわかには信じられない。真砂座における「金色欲」と題名を変えての伊井一座初演も明治三十年九月だし、『文藝倶楽部』に明治三十六、七年頃に『夏小袖』が『喜劇夏小袖』として再録される、というようなありそうもない事態を考えなければ、五郎一流のハッタリとして捨て置くしかない。

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乃村工藝社

乃村工藝社で資料を閲覧させてもらわないと(もらっても)カーマン・セラーが何者であるかわからないかもしれないなあ。

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