守美雄聞き書き

取材日時:二〇一四年九月二日
取材場所:明治大学駿河台キャンパス構内
取材者:神山彰・日比野啓・舘野太朗・和田尚久
取材立ち会い:菊池明(早稲田大学演劇博物館特別研究員)
編集・構成:和田尚久
監修:守美雄

イントロダクション

 『広辞苑』で「小芝居」の項を引くと〈規模の小さい劇場。また、そこで行われる歌舞伎興行。笹櫓。緞帳芝居〉とある。ここで示される語義のほか、こせついた演技、枝葉末節を肥大化させた演技のことを、いまでも「小芝居」と言ったりする。こちらは褒め言葉ではなかろう。

 今日、大劇場での商業演劇公演にたいして、小資本の演劇公演を「小劇場」と呼ぶことが定着しているが、「小芝居」という概念はこれに似ているようで違う。かつて、「小芝居」は「大芝居」の下位に置かれる、ひとつの階級として存在した。

 何をもって「小芝居」というかは時代によって違いがあり、ひとまとめには出来ないが、おおざっぱにいえば、江戸時代の歌舞伎興行は幕府の管理下にあり、劇場の運営、興行の計画も官許されたものでなくてはならなかった。江戸における芝居小屋の数は制限され、幕末期には興行場所も特定の地域に限って許された。しかし、実際には寺社の境内、あるいは両国広小路などの盛り場で芝居の興行をする一団があり、幕府はこれを黙認、ときには摘発した。これが「小芝居」である。官許された「大芝居」にたいして非公認の芝居をそう呼んだのである。

 明治維新以降の「規制緩和」で、芝居小屋の数や立地条件に関する規制が緩められると、東京市内各地に新興の芝居小屋が開業した。法令上、「大芝居」と「小芝居」の区別はなくなったわけだが、実際には、両者を区別する感覚は演者の側にも観客の側にも残存した。すなわち、江戸時代に官許された「正統な」大芝居の出演者およびその子孫を中心とする一座の興行が「大芝居」であり、そこに含まれない、もと下回りの役者、旅の役者、あるいは何らかの事情で大芝居を離脱した役者たちが参加する芝居は「小芝居」だと認識された。

 こうした「感覚」は、幕内の人々には強くあったらしく、大芝居と小芝居の間の役者の行き来はあるにはあるが、小芝居の役者が大芝居に出て出世したというケースはほとんど無い。中村翫右衛門は小芝居の役者、中村梅雀の子であったが、その出身ゆえ大芝居にいても出世の見込みはなく、そうした因習への不満が前進座結成の契機になったと繰り返し語っている。大芝居が近代化以降、九代目團十郎や五代目菊五郎など「名優」の存在により、次第に演技、演出様式が整理されていったのにたいし、小芝居はこのような「完成」ないしは「固定化」への意識が薄かった。それが大芝居にはない「個性的演技」につながったとも言えるし、大芝居の人々の目から見て、約束事にない、まさに「小芝居」をしていると低く見られたことも想像にかたくない。

 東京の小芝居は明治後期から大正時代にかけて大いに隆盛し、阿部優蔵『東京の小芝居』には三十軒以上の芝居小屋および一座が紹介されている。小芝居の興行は、有名俳優たちが出演する大芝居の興行よりも安価であり、演目も、たとえば九代目團十郎の手がけた「活歴物」のような〈意識の高い〉出し物よりは直接的な情感に訴えかけるものが好まれた。それを支持したのは、一夕の楽しみとして芝居を愛好した東京市民であった。あえていえば、役者と同様、観客の側にも階層があったのである。

 右にあげたような要素がからまりあい、小芝居には大芝居とはことなった伝承やスタイルが確立された。たとえば「切られお富」「女団七」「小栗判官」「てれめん」というような演目および演出は小芝居で大事にされ、おもしろく育てられたのである。

 墨田区の本所にあった寿座(寿劇場)は、昭和二十年(一九四五)三月の空襲で焼失するまで興行を続けていた、東都最後の常打ちの小芝居であった。明治、大正には数多く存在した小芝居の小屋も、昭和二十年には寿座一軒を残すのみになっていた。社会構造の変化によって、「小芝居」を支えていた階層(彼ら彼女らの多くは芝居小屋のある地域に居住し、余暇の楽しみとして「映画」ではなく「芝居」を選ぶ)が存在しなくなっていたのだと考えられる。

 終戦後の昭和二十四年(一九四九)、かつての寿座に出演していた坂東鶴蔵・坂東竹若・松本高麗之助たちが一座し、上野池之端の都民文化会館で歌舞伎の上演をおこなった。これが「かたばみ座」旗揚げの契機である。彼らはその年、翌年と二度の興行を成功させ、昭和二十五年(一九五〇)三月に劇団「かたばみ座」を結成する。

 「かたばみ座」は、はじめ上記都民文化会館を本拠地としていたが、昭和二十六年(一九五一)に同会館が失火から消失。その後は浅草松屋デパート内のスミダ劇場を本拠に、名古屋、仙台などでの地方公演も含めながら昭和三十年(一九五五)までの興行を続ける。しかし、同年なかばごろ、資金難から鈴木仙八が経営していた王子デパート内の王子劇場に本拠地を移し、あとは上野松坂屋のホールなどで短期間の公演を打ったり、またスミダ劇場に戻ったり、あるいは鑑賞組織の都民劇場や学生サークルの大学歌舞伎研究連盟との提携でホール公演などを行いながら、昭和四十五年(一九七〇)まで活動を続けた。

 このインタビューでは、「かたばみ座」とはどのような劇団であったかという主題を中心に、「小芝居」をとりまく文化、それを成立させていた時代の記憶を守美雄氏に伺った。守氏は大正十一年(一九二二)生まれ。子供のころより芝居見物を好み、寿座をはじめとする小芝居の観劇経験も数多い。早稲田大学を学徒動員のため繰り上げ卒業後、昭和一八年(一九四三)一〇月東京新聞に入社。翌年五月に召集され、満州で終戦を迎え、シベリア・ライチハで四年間の抑留生活を余儀なくされた。昭和二十四年(一九五九)に帰国後、東京新聞に復帰。当初、取材対象として接近した「かたばみ座」に、次第に深く関係するようになり、昭和二十七年(一九五二)に浄瑠璃からみずから脚色した『曾根崎心中』を初演。これは宇野信夫脚色・演出による大歌舞伎の復活上演(一九五三年)に先駆けてのことであり、注目に値する。さらに昭和三十年代以降は「かたばみ座」の経営者として劇団運営を手がけた。「最後の小芝居」である「かたばみ座」をその内外からつぶさに見てきたかたである。 (和田尚久)