戦前の芝居小屋
神山 守先生は子供の頃から小芝居をご覧になっていたのですか?
守 子供のころ、ぼくのうちは早稲田南町の漱石の家のすぐ隣にあったんです。近いところに早稲田座という芝居がありまして、ここへ行きました。昭和のはじめ頃ですね。
神山 名前だけ聞いたことがあります。
守 早稲田の鶴巻町にありました。昭和七年(一九三二)ごろに映画館に変わっちゃって早稲田キネマとなりましたけど、この早稲田座というのが三流ぐらいの小芝居で、寿座に出ていた連中もみんなここにいました。
それから四谷の大国座(大黒座とも。注一)。これは後に、新宿歌舞伎座という名前になりましたが、結局つぶれちゃいましたね。あと、神楽坂には金語楼の寄席で神楽坂演芸場。これがなかなか盛んで、昭和七年ごろの不況のときに入場料は十銭だったんですよ。それで、金語楼の人気で満員の客を集めまして、金語楼の寄席なのに浅草からレビューガールを呼んでレビューをやらせたりね。
神山 金語楼というのは、我々が知っている山下敬太郎の金語楼ですよね。
守 ええ。神楽坂の周辺には、落語家の柳橋だとか粋な連中がたくさん住んでいました。
神山 なるほどね。
守 それで、素人義太夫が方々で掛かるんですよ。町屋の主人とか神楽坂の料理屋の主人というのは、結構お金を持っているのでね。道楽にやりたいんだけど、聴く人がいないわけよね。
神山 ああ。それはつまり『寝床』ですね。
守 聴く人を集めるために僕なんか行くと、坊ちゃん、よく来ましたと言って、柏餅なんかを呉れるんですよ。その柏餅が神楽坂の紅谷か何かのいい柏餅なんだ。うちで食うのと違って。それで、その義太夫を聴くよりも、そのお菓子を食べに行く。そういうわけで、私は小学生の一年ごろから、よく義太夫を聴いていたの。
のちには浅草の東橋亭で、女義太夫を聴きに行ったりもしました。戸部銀作なんかと一緒に行くと、いやぁ、いいんですよ。
神山 浅草に女義太夫をやる小屋があった?
守 吾妻橋の近くで「東橋亭(とうきょうてい)」と書きまして、今の浅草の地下鉄の駅のすぐ近くの、おんぼろの倉庫みたいな建物の二階だったんですけど、ここにはまだ明治の「どうする連」がいましてね。
神山 まだいました?
守 はい。さわりになると「どうするどうするどうする」という声がかかるんですよ。それを僕たちの仲間の戸部と私と、あと室屋という戦争で死んだのと、あれは島田といったかな、そういう連中で女義太夫を聴くんですね。すると女の方が色気はあるし、それで声が高いでしょう、内容がよく分かるんですよね。明治時代にあれだけ盛んになったのは、ああ、これだからだなというのがわかりました。旦那衆の素人義太夫と女義太夫をよく聴いていると、やっぱり女義太夫の方がプロだからはるかにうまいんですよ。
神山 それはそうですよね。
守 聴かせるところを知っているわけね。ところが、たまに文楽が(東京に)来て、山城少掾なんかを聴くともっとうまい。山城なんかのじっと、じっくり語るやつを聴くと、ああ、女義太夫なんて安っぽいなと思う。
神山 山城が古靭太夫のころですね。
守 そうです。だけど、女義太夫の中でもうまいのはいまして、(竹本)土佐廣だとか竹本素女ね。
神山 素女に関しては、ご本をお書きになっていますね。
守 あ、よく知っていますね、もう四十年も前。この間、神田で見たら三千九百円になっている。もとは三百円の定価で出した本なんですよ。いま三千九百円になっているから、あれ、おかしくなっちゃって。