小芝居の役者

守 戦後にいた八百蔵というのが・・・・・・。

神山 あ、八代目の市川中車ね。

守 市川猿之助の弟の。兵隊から帰ってきて見たらね。あのころ、十五代目羽左衛門が死んじゃって寂しくなった歌舞伎界で、後に左團次になったあの男女蔵ね、男女蔵と八百蔵に江戸の風情がありました。

神山 いい男でしたもんね。

守 そのころに旗揚げした竹若たちのかたばみ座を見に行きましてね。たしか、昭和二十五年(一九五〇)だったと思う。僕が帰ってきてた翌年だったから。そうしたら、松本高麗之助という古い風格を持った役者がいて、それで竹若と鶴蔵というのがいると、そこにひとつのほんのりとした雰囲気が出来上がるんですよ。

神山 その三人で。

守 ええ、三人でね。そうすると、昔逍遙先生が、江戸時代の歌舞伎というのはいまみたいにきれいなもんじゃなくて、もう深刻なもので、もっと陰湿な暗さがあるもんだ、なんていうことを書かれていましたが、そういうものをやらせると小芝居がいいんですね。

神山 ああ。

守 あの大劇場の華やかな照明では、陰湿な芝居なんて本当はできませんよね、本当言うと。たとえばかたばみ座でやった近松の『女の腹切』。

神山 あ、『長町女腹切』ですね。歌右衛門が出しました。

守 ああいうものをやると、大劇場は明るいから似合わないんですよ。それで、むしろ小芝居へ残ってきたんだと思うんです。

これも戦争中の話ですけど、戸部銀作が横浜に実川延蔵が来ているぞと言うんですよ。これは大阪の旅役者ですから、なかなかうまいんですよね。それで、それじゃあ、行こうと。私は、当時横浜まで行くのは電車賃も掛かるし、大変なんだけど行ってみたんですよ。

神山 それはどこですか?杉田劇場というのが、戦後直ぐありましたが。

守 いや、当時つぶれかけたような開成座といったかな。そこにお客がぎっりしり詰まって、何をやるかのかと思ったら『引窓』。しかし『引窓』なんていうのは舞台装置がいるでしょう。どうしてこの小屋でもって、これができるのかと思うようなもうおんぼろ小屋なんですよ。装置がほとんどないんですよね。そうしたら、何と天井から綱を一本下ろしてね……。

神山 はい。

守 それだけで『引窓』をやっているの。それで、それを引っ張るとぱっと(引窓が)開くの。つまり電気を明るくするだけなんです。だから、歌舞伎なんて装置などなくてできる。『引窓』をやるのに何にもなくてね。

菊地 綱だけ?

守 綱一本だけだ。それで、開閉すると照明がぱっと変わる。

神山 それは何年ごろですか。

守 昭和十八年(一九四三)。

神山 延蔵というのは、延三郎の弟子でしょうね。

守 それが田舎を回ってね。当時、浅草までは来られないけど、横浜あたりまでは来る田舎廻りの一座があったんです。

しかし、彼らは誇りを持っていたから、寄席芝居とは行動しなかった。寄席芝居とはやっぱり一線を画しましたね。そこは偉かったと思いますよ。

神山 それは坂東鶴蔵も言っていますね、私たちは寄席芝居とは違うんだということは。

守 そう。だから、困ったときは寄席にも出ると。しかし、我々は本格的なものをやらなきゃいけない、と。例えば『三人吉三』をやるとき、小屋が小さい

ので二重を組まないで平舞台でやった例がある。これもちゃんとやればそれでもいいんですよ、平舞台でね。そういう方法もあるにはあるけれど、延蔵のはとにかく綱一本でやっていたから、私は偉いなと思って。それで、結構お客を引き付けているの。そこは、義太夫の力ですよ。

義太夫というものは、チョボが完全に語ってくるでしょう。だから、義太夫芝居はだいぶチョボに負うところが多いんです。特に大阪の芝居はチョボが優れていたように思います。

神山 そうですね。あれ、小芝居はだいたい弾き語りですかチョボは。

守 弾き語りじゃない。

神山 そうですか。やっぱり太夫と三味線は別で。

守 三味線弾きが来なくてやむを得なかった場合は、太夫もたいがい少しは弾きますからやったことがありますけどね。あ、話は変わるけど、糸操りの結城孫三郎。あれも初めは義太夫がちゃんと付いていたんですよ。それが、義太夫がお金をくれないので逃げちゃったんだ。それで、しょうがないから人形使いがしゃべるようになったの。それですから、あの結城孫三郎の先々代の一座は、本来は義太夫の太夫を使って正規なものをちゃんとやっていましたよ。