かたばみ座の「曽根崎心中」
日比野 守先生が台本を書かれた『曽根崎心中』上演のときは、役者も台本を覚えたわけですよね?
守 私は学生のときから『曽根崎心中』を歌舞伎でやったらどうかと思っていたんですよ。だけど、小芝居でやるのは大変難しくてね。というのは原作通りに白無垢と黒小袖でいったら、悲しくて暗くて小芝居のお客は見ていられませんよ。華やかなものを求めて来るわけでしょう。役者の鶴蔵も、原作通りの衣装ではだめだと言うのですね。
徳兵衛が黒で、お初が白無垢だなんていったら、本当にお葬式のような感じのになってしまうと。それで、しょうがないから鳥辺山風にやっちゃったの。
神山 『鳥辺山心中』。男女で対の衣裳にしたわけですか?
守 ええ。ちょっと衣裳も華やかにした、死んでいくのに。「一足づつに消えてゆく夢の夢こそ哀れなれ」というところを、荻生徂徠は「近松の根はここにあり」と着目した。徂徠という漢学者は、中国の唐や宋の詩の哀愁というものをやっぱり知っていたから、あれを評価した。しかし、その感覚を今の義太夫で表現しようと思ったって難しいですね。
神山 そうかもしれませんね。
守 僕はあれは清元か何かでやっちゃった方がいいんじゃないかなと思うんです。あの繊細な江戸末期の三味線の方が、義太夫で「でんでん」といくよりも合うんじゃないかなと思うんですけどね。
日比野 かたばみ座で『曽根崎心中』をやったときは、文楽ももうしばらくやっていなかったわけですよね。
守 そうです。
日比野 ということは、義太夫の曲も含めて全部お作りになったということですか。
守 そうです。義太夫は原作に基づいて書いていって、太夫を呼んで、おまえ、ここに節を付けろと言ったら、これでよろしいですかとべんべんとくる。その節を鶴蔵に聞かせてれでやれるかと言ったら、いいでしょうと。それで、合わせていったんですよ。
神山 その太夫さんは、かたばみ座にいつも出ている太夫さん?
守 座付きの太夫です。その三味線弾きが作曲をしたんだけど、なかなか思うようにいかなくてね。だから、繰り返すけど、私はあんな洗練された曲は幕末の清元か常磐津でやった方が、繊細な味が出るんじゃないかと思うんですよね。今にそういう人が現れるんじゃないかと思うんですよね。
神山 そういうときは書き抜きだけじゃなくて、ちゃんと本も作るんですか。
守 作りました。
和田 『曽根崎心中』は近松の筋、浄瑠璃そのままなのか、あるいは意図して脚色した部分はありましたか。
守 なるべくそのままにしようと思ったんだけど、実際にいくと、近松の原作のままでは、つじつまが合わなくなってくるところがあるんですよ。つじつまというか、役者の呼吸が合わない。というのはあれは本来、人形芝居でしょう。人間がやると、間も違えばいろいろなものが違ってくるわけで、間にいろいろな言葉を入れなきゃつながらなくなってくるんですよ。
日比野 そのときは通しに近い形だったんですか。
守 そうですね。たしか五幕くらいあったと思います。このほかの出し物とあわせて、三本立てのうちの一本として上演しました。
和田 かたばみ座の『曽根崎心中』は、大歌舞伎の上演(昭和二十八年[一九五三]。宇野信夫脚色・中村扇雀主演)よりも早いのですよね。推測ですけど、かたばみ座の上演を松竹や大歌舞伎の人たちが知って、この出し物はいけるんじゃないかと「発見」し、数年後に上演した可能性もあるな、と。
守 それは分からないけど、戸部がやった先の話の「文治住家」。あれも、かたばみ座の上演があったから復活が出来たともいえる。
初代の猿翁は非常に関心を持って見に来ていました。それで息子の段四郎や孫になる今の猿翁を見に来させたりしていましたけどね。
のちに、かたばみ座がもうほとんど興行をやらなくなってから、猿之助(二代目)が歌右衛門たちと一座を組んで中国、九州を廻る旅のときに、竹若を呼んだんです。出し物が『寺子屋』ほかで、彼は玄蕃を勤めました。
一座のなかに富十郎(四代目)がいて、彼は竹若の師匠筋(竹若は富十郎の父の彦十郎の弟子)に当たるのですよ。そういう関係で、富十郎が旅先で病気で倒れちゃったときに、竹若が『阿波の鳴門』なんかを代役したこともある。
猿之助の一座の旅でも、人が足りなくなると今度は「寺子屋」の千代に廻ったり。つまり玄蕃と千代と両方出来る。つぶしがきくんですね。のちに猿之助が「竹若さんを連れていったからよかった。大歌舞伎の役者ではこうはいかない」と言いました。
神山 猿之助のほか、(守田)勘弥(十四代目)も来ていたといいますね。
守 勘弥の息子(坂東三田八(四代目):かたばみ座では守田謹弥の名前で出演)がいるんですよ。この息子が少しばかで、お稽古のときに腕を組んだりしながら見ていて怒られたりね。そのころの勘弥の相手は元芸者で、もうその人のことが嫌いになってきたんですね。水谷八重子と一緒になる前ですよ。戦後も、しばらく、菊五郎劇団に居たようですが、結局だめで。しまいには勘当みたいにして追い出しちゃったんだよ。その息子はしょうがないからデン助劇団に入ったり、いろいろなところに入っていまして、最後の頃のかたばみ座にも来たんですよ。
神山 そうですってね。
守 そういう事情を知っているから、僕は入れてやったんですよ。ちょっとした脇役にすると、うまくはないけどニンはいいんですよ。しばらくいたんですけどね。
神山 勘弥に似ていましたか?
守 似ている。偽物として通るくらい似ていました。鼻差しがいいんですね。
だけど、ちょっと頭がよくなかった。だから、なかなか芝居を覚えない。
のちに、かたばみ座のあんまり芝居をやらなくなってから、銀座のドイツ人がやっている「ユーハイム」というケーキ屋に勤めていたことがある。
それを聞いた勘三郎が店に来て、おまえ、ここにいるならまじめにやらなきゃだめだなんてね。昔の勘三郎ですよ、先代ね。