国劇研究会
守 みなで義太夫に通っていたころは、菊地さんのいた演劇博物館の地下の倉庫みたいなところに……。
菊地 ああ、そうでした。
守 一室を河竹繁俊さんが提供してくれてね。
菊地 薄暗い部屋でね。
守 そこで、戸部なんかと議論するわけですよ。
菊地 もう一人ね。楠山正雄先生の息子さんもまじえて。
守 そうそう。東京新聞にいたころ岡鬼太郎が死んだとき、僕が劇評に楠山さんを推薦したの(注二)。それで、楠山さんに歌舞伎評を書いてもらったことがある。彼は英文学者だけど大変歌舞伎をよく知っていて、なかなか近代的な評論を書く人でした。
菊地 あの集まりは国劇研究会といったでしょう。
守 そうそう。それは、坪内士行さんが付けたの。
神山 そうなんですか。
守 坪内士行さんが、歌舞伎を主に研究するなら国劇研究会という名前がいいだろうと言ったので、それでそうしたんですよ。そのときに十人ぐらい、部員がもっといたかな、みんな戦争反対の人たち。
神山 ああ、そうでしょうね。
守 ミリタリズムは大反対だけど表面では口に出せない時代ですから。それで、腹の中じゃあ、この世の中の体制がしゃくに障ってね。そのなかで、戸部は兵隊に取られないで済んだの。それから、もう一人僕の友達ではヤジマ君(漢字でどう書くかお教え下さい)というのが、兵隊に取られなかったのだけど、そのころは、やせて兵隊にならないような体の人までみんな取られたんですよ。だけど、戸部とそのヤジマ君というのは取られなかった。後で思うと、そのころ徴兵官というものと地元の人の「付き合い」というものがあるの。つまり、徴兵検査にも闇があった。それで、こいつは何とかして逃しちゃうというね。二人とも大地主の息子でした。
神山 あ、そうか。
守 徴兵官の軍人たちが、みんな賄賂をもらっていたわけだ、大変な賄賂を。
菊地 だから、六代目の息子も。
神山 そうですね、梅幸がね。
菊地 梅幸は帰された。
神山 それを、永井荷風が『断腸亭日乗』で書いていますよね。
守 日本の軍国主義だって、それはいんちきなもんですよ。
神山 失礼ですけど、先生は大正十一年(一九二二)?
守 大正十一年。
神山 戸部さんが九年(一九一九)ですよね。それで、菊地先生が十二年(一九二三)でしょう?
菊地 そう。震災の年。
守 あんたはよく生きたね、私もね。
神山 皆さん九十歳ですからね。
守 私は昔は記憶力がある程度いいと言われて、大正天皇の最後のときのラジオ放送をまだ覚えているんですよ。
天皇陛下の今日の召し上がりものは、卵黄一個というんでしょう。こっちは、まだ六歳ぐらいですよ。そうすると、「卵黄一個」が「団子一個」と聞こえるんですよ、卵黄というのが(笑)。大正天皇の最後のときの召し上がりものを言う、そこだけは頭へ残っていまして。それで、「JOAK、こちらは東京市芝区の愛宕山東京中央放送局でございます」と言うのが、頭に残っていますよね。だから、ラジオ放送は当時鉱石のラジオで、こうやって耳にレシーバーを当てて聴く。東京の中で、でもまだ一万人ぐらいしか聴取者がいない。
神山 そうでしょうね。
守 レシーバーを貸し合って、家族で片方を当てたり何かして聴いたんですけどね。真空管ができない前の時代でしょう、いわゆる鉱石ラジオ。なかなか周波数が合わないんですよ。それでも、その当時としたら大変なぜいたくでね。それで、六代目菊五郎なんかの芝居も聴くんですよ。