新派の思い出
神山 子供のころにご覧になった歌舞伎以外のお芝居で記憶にあるものは。
守 当時の新派というのは猛烈にうまかったですよ。河合とか喜多村など技がうまくて、たまに歌舞伎座に出て昔の吉右衛門なんかと並んでいても河合や喜多村は負けないですよ。しっかりと貫祿がある。よく考えてみると新派の連中は、家柄もなくてたたき上げてきたでしょう。だから抜群に演技はうまかったんですよ。
やっぱりあれは明治の歌舞伎みたいなもので、明治の情緒があるものは、相当の洗練があった。「湯島境内」でも何でも芝居がまとまっているし、とてもいいんですよ。ただ今の時代では、もううけなくなっているけど、演技はうまかったですよ。
のちに、新派の方で伊井(蓉峰)とか何かがみんな死んじゃってから、梅島昇が、あれのときはまだ二流の位置だったんですけど、彼が大黒座で「湯島」をやったんですよ。そのとき僕はうまいな、こんなうまいやつは歌舞伎にいたらいいなと思うぐらい感心した。
新派の人たちはソフト帽を、しゃっと斜にかぶったり、外国映画の影響もあったか知らんけど、とても雰囲気があるんですよ、情緒がね。僕は温床で育った歌舞伎役者よりも、腕があるなと思った。
新国劇も辰巳や島田はとても技はうまかったですよね。ことに翻案ものの『白野弁十郎』。あれなんかを新国劇がやると、なかなか素晴らしいですよね。ちゃんと外国劇を消化しているという感じがしてね。
それから三好十郎という人が書いた戯曲をやっていた、文化座という新劇がありますね。
神山 鈴木光枝の。
守 この文化座を僕は戦争中からよく見ていたんですが、三好さんの『獅子』という作品を築地小劇場でやっていたのを見ていたんですよ。
そうしたら芝居を見た翌日か何かに招集が来て、ぼくは満州に連れていかれた。そこで佳木斯(チャムス)という町の勤務になって、日曜日には外出が出来るんですね。それで町に出たら文化座が来ているんですよ。昭和二十年だった。
神山 慰問公演で。
守 ええ。ポスターが張ってあるんですよ、佳木斯の町に。しかも築地で見た『獅子』をやっているんですよね。その日しか町を歩けないから、すぐホールへ行って聞いたら、すぐ脇に文化座の連中が泊まっているというんですよ。そこのホテルにその足で行きましてね。そうしたらそこへ出てきたのが早稲田で同級生の押川昌一君。彼が文化座の演出部にいるんですよ。彼は明日公演があるから来いというんだけど、兵隊さんは外出できないんですよ、自由には。
しかたなく別れて、それから一月後に日ソ開戦になった。それなもので文化座の連中は満州で帰れなくなっちゃって、女の子はソビエト軍に犯されるというので、みんな坊主になっちゃったの。男装をして、そして二年かかって帰ってきたと聞いています。
そもそも文化座が満州へ渡ったのはなぜか聞いてみたら一説があって、日本国内では空襲でもって全然公演するところがなくなっちゃったので、海軍の報道部へ頼んだところが潜水艦で行けというので、それに乗ってきたというのね。
異常なことでしょう。海軍の潜水艦が文化座を乗せていくなんていうことは。これは日本の演劇史の秘話ですね。
菊地 守さんもシベリアではずいぶん苦労したんですか。
守 食べるものはソビエトが支給してくれたの、ちゃんと。向こうは捕虜を労働力に使うつもりだから。日本人が栄養失調でたくさん死ぬでしょう、そうすると向こうの司令官はクビになる。死なないようにやれというのが、向こうのスターリンの命令だから。だから、向こうの兵隊さんと、こちらと、食べるものが同じなんだ。
神山 強制労働はきつかったですか?
守 強制労働というけどね、やっぱり社会主義の国だからきちんと八時間の労働なんだ。それで休息の時間もちゃんとあるから、日本よりも楽なの。それから、それほど責任がないでしょう、捕虜だから。
神山 責任はないですね(笑)。
守 だから氷点下のなか、こんな大きな手袋で土を掘るんですよね。バールで、岩をぽんとやって。僕らの力だとこのくらいの小さいかけらが飛ぶ程度ね。ところがロシア人の労働者がやると、このくらいの(大きいの)が飛ぶんですよ。
それでも文句は言わないの。結局今考えると、それぞれに責任がないでしょう、社会主義は。