寿座の思い出

神山 本所の寿座についてお伺いしたのですが。

寿座に初めていらした記憶ってどのぐらい、昭和十年(一九三五)ぐらい?

守 もう昭和六年(一九三一)ごろに、おばあさんに連れられたの。

そのときは、まだ升席でした。のちに、寿劇場って変わったのが何年ぐらいだか忘れちゃったけど、それから椅子を置くようになった。両側は座る方(桟敷)で、椅子を置くようになって。

菊地 私が寿座に行ったころ、おばあちゃんに連れられていったときは、平土間の席は、もう椅子でした。長い椅子で。二階の桟敷の方はちゃんと座るかたちで、布団にあたって、炬燵みたいな火鉢を貸してくれて。

守 当時の芝居や寄席では「炬燵」といって、火鉢の中に墨がひとつで炭団か何かが入っていて、煙草を吸うひとはキセルをこう使う。それが温まりにもなるんです、寒いときには。

神山 そうですってね。

菊地 母親がこうやると温かいよと、自分のショールか何かをこうやって。二人でそれにあたって。

神山 当時はね。芝居小屋に暖房がないですもんね。

守 食堂というものが特になかったから、弁当を売りに来てね。小屋の人とそういう付き合いがあった。

もうひとつ、いまは無いのは「留め男」という男がいて、群衆がうっかりして、舞台へ上がったりするのを止めたりするんです。

神山 芝居でも、『幡随長兵衛』に出てきますよね。

菊地 お客に向かって座っているんですよね。

守 寿座には新之助がいたでしょう。

神山 ええ、市川新之助ね。

守 新之助は九代目団十郎の娘さんをもらったから、本来なら大歌舞伎にいるべき人なのですよ。

神山 そうですよね。

守 だけど、たっぱ(背丈)が低かったので、大劇場には向かなかった。それを自分が自覚していた。演技は大変うまかった。それで、勉強熱心なところもありまして、『鳴神』をやったときがあるんです、小芝居のときね。歌舞伎十八番を小芝居でやることは非常に少ないんですが。

それをどこで学んだかというと、『鳴神』は二代目市川左團次が復興して、そのあとは前進座がやったでしょう。

神山 長十郎がやったんです。

守 そうね。それで前進座の連中を呼んで勉強したんです。

神山 そうですか。

守 うん。たっぱが小さいのに『鳴神』を寿座でやるので、僕はそのときうまくいくかなと思ったんですが、それも結構うまくやりましてね。そうしたら、前進座は偉いですよ。新之助が言っていましたが、役もめをすることがなくて。昔から、あそこは会員制(劇団制)でしょう。それで教えてくれと言ったら、喜んで坊主役の役者までみんな来て細かく教えてくれたと。それで、寿座は感心していましたよ。